近藤紘子

 

近藤 紘子

 

 







1945年8月6日、午前8時15分。

爆心地から1.1キロメートル
原子爆弾が炸裂し、
潰れた広島流川教会近くの牧師館。

生後8カ月だった私は
母親の腕に抱かれ、奇跡的に生き残った。

死を免れた私の闘いは、
この瞬間から始まったの。

1945年8月6日、午前8時15分。

爆心地から1.1キロメートル
原子爆弾が炸裂し、
潰れた広島流川教会近くの牧師館。

生後8カ月だった私は
母親の腕に抱かれ、奇跡的に生き残った。

死を免れた私の闘いは、
この瞬間から始まったの。

 

  • Profile
    Koko Kondo

近藤こう (旧姓:谷本)

1944年(昭和19年)11月20日、広島流川教会の牧師だった谷本清氏とチサさんの長女として広島市幟町に生まれる。1945年8月6日、生後8カ月の時に爆心地から1.1キロメートルの教会の牧師館で被爆。崩壊した建物の下敷きになったが、母の腕に守られ奇跡的に助かった。

戦後、父は傷ついた被爆者たちの救済に尽力。国内外を飛び回り、ほとんど家にいない父に、幼かった紘子さんは孤独感を感じることも多かった。同時期、行き場もなく、傷ついた心身の救いを求めて教会を訪れる原爆孤児や、原爆で顔にひどいやけどを負い「原爆乙女」と呼ばれた女性らと交流。彼ら彼女らの苦悩を目の当たりにし、原爆を投下した米国への憎悪を募らせた。

一方で、父を介して、被爆地・ヒロシマの復興のために尽力する米国人の存在も感じて育った。原爆投下後の広島を訪れ谷本牧師を含め6人の被爆者を取材し、のちに大ベストセラーとなる『ヒロシマ』を出版して米国に「谷本清」の名を知らしめたジャーナリスト、ジョン・ハーシー氏(1914-1993)。谷本牧師の平和活動を当初から支援したノーベル文学賞受賞作家、パール・バック氏(1892-1973)。彼らの存在を通して谷本牧師と知り合った、ヒロシマ・ピース・センター協力会の一員、ノーマン・カズンズ氏(1915-1990)。平和活動家のフロイド・シュモー氏(1895-2001)。幼い紘子さんは彼らから “Koko”と呼ばれ、可愛がられた。

中学生の時、定期健診で訪れたABCC(原爆傷害調査委員会、現・放射線影響研究所)でガウンを脱がされ、裸の上半身を複数の大人の面前にさらされる耐えがたい屈辱を経験。「被爆者」ではない人生を求め、東京の桜美林高に単身で進学することを決めた。高校卒業後は、米国に留学。5年半の米国滞在中、パール・バック氏と親交を深め、多大なる影響を受けた。1966年にセンテナリー女子短大を、1969年にアメリカン大をそれぞれ卒業。同年帰国した後は、東京の外資系企業でしばらく秘書として働いた。

30歳の時、後に牧師となる近藤泰男氏と結婚。父・谷本牧師が流川教会にて運営する「ヒロシマ・ピース・センター」の仕事を手伝うため、夫妻で東京から広島に移り住んだ。以降、広島を訪れた外国人への通訳や、国内外での被爆体験の証言活動に尽力。1996年からは毎年、立命館大や母校のアメリカン大の日米の大学生を連れ、8月6日の広島、9日の長崎の平和式典に出席している。

特別な事情を抱え、国内で行き場を失った子どもたちを海外の義父母とつなぐ「国際養子縁組」の活動に半世紀にわたって力を注ぐほか、世界の子どもたちと共に平和を訴える米国の財団法人「チルドレン・アズ・ザ・ピースメーカーズ」の国際関係相談役も務める。

 

 

 

幼少時代―被爆者救済に奔走
する谷本牧師の娘として

▲原爆投下後の流川教会。
広島の街全体が壊滅状態の中、紘子さんは奇跡的に助かった

◀原爆投下後の流川教会。
広島の街全体が壊滅状態の中、紘子さんは奇跡的に助かった

1949年10月1日、皆実町平和住宅の完成記念写真。
フロイド・シュモー氏を中心に、仲間たちの手で建設された。
中央でシュモー氏に抱かれているのが紘子さん▼


フロイド・シュモー

原爆投下への謝罪と住まいを失った人々のため、世界で集めた募金をもとに、広島市と長崎市で被爆者のための住宅や集会所の建設を進めた。広島では1949~1953年に21戸を建設。「ヒロシマの家」と呼ばれ親しまれた。


フロイド・シュモー

原爆投下への謝罪と住まいを失った人々のため、世界で集めた募金をもとに、広島市と長崎市で被爆者のための住宅や集会所の建設を進めた。広島では1949~1953年に21戸を建設。「ヒロシマの家」と呼ばれ親しまれた。

▲1949年10月1日、皆実町平和住宅の完成記念写真。
フロイド・シュモー氏を中心に、仲間たちの手で建設された。中央でシュモー氏に抱かれているのが紘子さん

原爆投下後の広島に世界中から届いた救援物資を整理する谷本牧師と仲間たち。幼い紘子さんの姿もある

父・谷本牧師と交流の深かった
ノーマン・カズンズ氏に抱かれる
紘子さん▼

▲原爆投下後の広島に世界中から届いた救援物資を整理する谷本牧師と仲間たち。幼い紘子さんの姿もある

 


ノーマン・カズンズ

米国の作家、編集者、ジャーナリスト。ヒロシマ・ピース・センター協力会の一員として、米国人の義父母による原爆孤児への精神的サポート「精神養子縁組」や、「原爆乙女」の渡米治療などの支援活動に尽力した。1964年、広島市特別名誉市民。


ノーマン・カズンズ

米国の作家、編集者、ジャーナリスト。ヒロシマ・ピース・センター協力会の一員として、米国人の義父母による原爆孤児への精神的サポート「精神養子縁組」や、「原爆乙女」の渡米治療などの支援活動に尽力した。1964年、広島市特別名誉市民。

▲父・谷本牧師と交流の深かった
ノーマン・カズンズ氏に抱かれる
紘子さん

▲家族での記念写真。父・谷本清氏、母・チサさん、弟や妹と。右端が紘子さん。末の弟はまだ生まれていない

▲戦後、流川教会の再建が進み、その敷地内に流川幼稚園も併設された

1951年に発足した「原爆傷害者更生会」では、被爆者が直面している問題について話し合われた。谷本牧師の呼びかけで、原爆によるやけどでケロイドを負った女性たちが集まり、寄付で提供を受けたミシンを使って、洋裁での自活の道を目指した

▲紘子さんのアルバムより。
英語の「KOKO」や、胸に十字架のある人物画など、紘子さんの育った環境が垣間見える

 

 

▲1951年に発足した「原爆傷害者更生会」では、被爆者が直面している問題について話し合われた。谷本牧師の呼びかけで、原爆によるやけどでケロイドを負った女性たちが集まり、寄付で提供を受けたミシンを使って、洋裁での自活の道を目指した

 


「ヒロシマ・ピース・センター」と
「ヒロシマ・ピース・センター協力会」


1946年『ザ・ニューヨーカー』に発表されたジョン・ハーシー氏のルポ『ヒロシマ』によって、谷本清氏の存在はアメリカ中に知れ渡った。2年後の1948年9月、谷本氏は渡米、それから15カ月間に渡り31州256都市で講演を行い、ヒロシマの惨状と平和の大切さを説いた。講演の合間に谷本氏が訴えたのが、被爆者のケアと平和発信の拠点「ヒロシマ・ピース・センター」の必要性だった。この話に、小説家・社会活動家であったパール・バック氏が賛同。彼女の口添えによって知り合ったノーマン・カズンズ氏らの協力のもと、広島に「ヒロシマ・ピース・センター」が、ニューヨークに「ヒロシマ・ピース・センター協力会」が発足。協力会の大きな支えのもと、原爆孤児の「精神養子運動」、「原爆乙女」の渡米治療の橋渡しなどを行った。センターは今もあり、谷本清平和賞の授与、世界平和弁論大会の開催などを通して、平和の尊さを発信し続けている。

 

 

 

幼かった頃の私は、心の底から憎んでいた。

うら若きお姉さんたちの柔らかな肌を
赤黒く焼いた原子爆弾、
そしてそれを広島に落としたあの飛行機
狙いを定めた操縦士を

「絶対に許さない。いつか私が敵を討ってやる!」

そして10歳の私は「彼」に出会った。

取り返しのつかない罪に
自責の念に追い詰められ
涙をこぼす一人の人間に

ああ神様!
その瞬間、強く握った私の拳がほどけたのです。

 

幼かった頃の私は、心の底から憎んでいた。

うら若きお姉さんたちの柔らかな肌を
赤黒く焼いた原子爆弾、
そしてそれを広島に落としたあの飛行機
狙いを定めた操縦士を

「絶対に許さない。いつか私が敵を討ってやる!」

そして10歳の私は「彼」に出会った。

取り返しのつかない罪に
自責の念に追い詰められ
涙をこぼす一人の人間に

ああ神様!
その瞬間、強く握った私の拳が
ほどけたのです。

 

  • Story.1
    Koko Kondo

「紘子ちゃん、紘子ちゃん」
幼い頃、教会にやってくる若いお姉さんたちに妹のようにかわいがられて育った紘子さん。当時、4歳だった紘子さんにはある悩みがあった。
「目、鼻、唇、あご…彼女たちの顔には、あまりにひどいケロイドがあった。幼い私は怖くて直視できない。どこを見たら良いのか分からなかったの」
女性たちとの交流を深めるにつれ、次第に彼女らの体を傷つけた原爆への憎悪を深めていく。
「原爆を落としたパイロットを絶対に許さない。もしも会ったら、この私が仕返しをするんだ」

それから6年後の1955年5月。10歳になった紘子さんは、期せずしてその時を迎える。それは、「原爆乙女」のケロイド治療の義援金を募るため、ヒロシマ・ピース・センター協力会の提案で、家族と共に米国のテレビ番組「This is Your Life」に出演した時のことだった。

さっとスクリーンが開いてスタジオに登場したのは、スーツ姿の大柄な白人男性。
「彼は誰?」母に尋ねた。
「紘子、あの人が広島に原爆を落とした副操縦士よ」
その人こそ、紘子さんの長年の「宿敵」。
広島に原爆を落とした米軍機「エノラ・ゲイ」の元副操縦士、ロバート・ルイス氏だった。この日、番組の最大の見せ場として、被爆者の救済に人生を捧げる父・谷本清と原爆を投下した張本人の一人であるキャプテン・ルイスとの対面が用意されていたのだった。
ついにこの時が来た!
ずっと憎み続けた人物が目の前にいる。この人さえいなければ―。
今すぐにでも殴りかかりたくなる気持ちをぐっとこらえ、紘子さんは彼をにらみ続けた。しかし次の瞬間、紘子さんの耳に飛び込んできたのは、あまりにも意外な言葉だった。
「神よ、私たちは何てことをしたのだ(My God, What have we done?)。私は原爆を投下してすぐにこの言葉を、飛行日誌に書きました」
声を詰まらせながら話す彼の目には、涙が浮かんでいた。

紘子さんは、その涙に強い衝撃を受ける。
「敵だったこの人も罪の意識にさいなまれ、悲しみ、苦しんでいたんだ」
彼のそばに近づき、大きく、温かい手を握った。
「自分の中にだって悪はある。憎むべきは彼ではない。憎むべきは、戦争を起こす人間の弱さだ」紘子さんが、憎しみを乗り越えた瞬間だった。

2016年5月27日、オバマ前米大統領が、米国の現職大統領として初めて広島を訪問した。その際の演説で語った「ある女性は、原爆を投下した操縦士を許した。本当に憎むべきなのは戦争そのものであると気づいたからだ」との一節は、紘子さんとキャプテン・ルイスとのエピソードを引用したとされている。

  • Story.1
    Koko Kondo

「紘子ちゃん、紘子ちゃん」
幼い頃、教会にやってくる若いお姉さんたちに妹のようにかわいがられて育った紘子さん。当時、4歳だった紘子さんにはある悩みがあった。
「目、鼻、唇、あご…彼女たちの顔には、あまりにひどいケロイドがあった。幼い私は怖くて直視できない。どこを見たら良いのか分からなかったの」
女性たちとの交流を深めるにつれ、次第に彼女らの体を傷つけた原爆への憎悪を深めていく。
「原爆を落としたパイロットを絶対に許さない。もしも会ったら、この私が仕返しをするんだ」

それから6年後の1955年5月。10歳になった紘子さんは、期せずしてその時を迎える。
それは、「原爆乙女」のケロイド治療の義援金を募るため、ヒロシマ・ピース・センター協力会の提案で、家族と共に米国のテレビ番組「This is Your Life」に出演した時のことだった。

さっとスクリーンが開いてスタジオに登場したのは、スーツ姿の大柄な白人男性。
「彼は誰?」母に尋ねた。
「紘子、あの人が広島に原爆を落とした副操縦士よ」
その人こそ、紘子さんの長年の「宿敵」。
広島に原爆を落とした米軍機「エノラ・ゲイ」の元副操縦士、ロバート・ルイス氏だった。
この日、番組の最大の見せ場として、被爆者の救済に人生を捧げる父・谷本清と原爆を投下した張本人の一人であるキャプテン・ルイスとの対面が用意されていたのだった。
ついにこの時が来た!
ずっと憎み続けた人物が目の前にいる。この人さえいなければ―。
今すぐにでも殴りかかりたくなる気持ちをぐっとこらえ、紘子さんは彼をにらみ続けた。
しかし次の瞬間、紘子さんの耳に飛び込んできたのは、あまりにも意外な言葉だった。
「神よ、私たちは何てことをしたのだ(My God, What have we done?)。私は原爆を投下してすぐにこの言葉を、飛行日誌に書きました」
声を詰まらせながら話す彼の目には、涙が浮かんでいた。

紘子さんは、その涙に強い衝撃を受ける。
「敵だったこの人も罪の意識にさいなまれ、悲しみ、苦しんでいたんだ」
彼のそばに近づき、大きく、温かい手を握った。
「自分の中にだって悪はある。憎むべきは彼ではない。憎むべきは、戦争を起こす人間の弱さだ」紘子さんが、憎しみを乗り越えた瞬間だった。

 

2016年5月27日、オバマ前米大統領が、米国の現職大統領として初めて広島を訪問した。その際の演説で語った「ある女性は、原爆を投下した操縦士を許した。本当に憎むべきなのは戦争そのものであると気づいたからだ」との一節は、紘子さんとキャプテン・ルイスとのエピソードを引用したとされている。

 

 

 

ステージの上に、たった一人
立ちすくむ私に、ライトが当たる

向こうの暗闇から声がした
「ガウンを脱いで」

布一枚の下着姿で
人目にさらされた
屈辱、怒り、悔しさ、悲しさ…

私が戦争を始めたわけではない!
なのになぜ、こんな思いをしなければならない?

そのとき、決心したの
もうたくさん!広島を出よう!
命ある限り、広島で被爆したことは誰にも言うまい、と。

 

米国が原爆の人体への影響を調べる目的で1947年に設立した原爆傷害調査委員会(ABCC、現・放射線影響研究所)は大人だけでなく、乳児や幼児の健康状態の追跡調査も行っていた。紘子さんは幼少期から年に1~2回、定期健診を受けていたが、中学生の頃いつものように健診に行くと、普段とは違う講堂のような広い部屋に通され、医師から布1枚の下着姿になるよう指示された。強いライトを当てられ、複数の大人に胸の膨らみつつあった体を見られた紘子さんの目からは、次から次に涙がこぼれた。「神様、私を今すぐここから連れ出してください」しかし、救いの手が差し伸べられることはなかった。「ああ、広島を離れたい…!」東京の高校への進学を決意した紘子さん。この屈辱的な体験は、長い間、家族にすら話すことはなかった。

ステージの上に、たった一人
立ちすくむ私に、ライトが当たる

向こうの暗闇から声がした
「ガウンを脱いで」

布一枚の下着姿で
人目にさらされた
屈辱、怒り、悔しさ、悲しさ…

私が戦争を始めたわけではない!
なのになぜ、こんな思いをしなければならない?

そのとき、決心したの
もうたくさん!広島を出よう!
命ある限り、広島で被爆したことは誰にも言うまい、と。

 

米国が原爆の人体への影響を調べる目的で1947年に設立した原爆傷害調査委員会(ABCC、現・放射線影響研究所)は大人だけでなく、乳児や幼児の健康状態の追跡調査も行っていた。紘子さんは幼少期から年に1~2回、定期健診を受けていたが、中学生の頃いつものように健診に行くと、普段とは違う講堂のような広い部屋に通され、医師から布1枚の下着姿になるよう指示された。強いライトを当てられ、複数の大人に胸の膨らみつつあった体を見られた紘子さんの目からは、次から次に涙がこぼれた。「神様、私を今すぐここから連れ出してください」しかし、救いの手が差し伸べられることはなかった。「ああ、広島を離れたい…!」東京の高校への進学を決意した紘子さん。この屈辱的な体験は、長い間、家族にすら話すことはなかった。

 

  • Story.2
    Koko Kondo

東京の高校を卒業後、5年半にわたって米国に留学した紘子さんは、その間一度も帰国せず、奨学金を得ながら勉学に励んだ。「第二の母」と慕うノーベル賞作家のパール・バック氏との交流を深めたのは、この留学期間の中でのこと。父・清氏が設立した「ヒロシマ・ピース・センター」の賛同者だったパール・バック氏は、自身も戦争孤児などの子どもたちを養子として育てながら、朝鮮戦争で米兵と現地女性の間に混血児として生まれ、行き場のなくなった子どもたちの権利を守ろうと、私財を投じて奔走していた。「どんな事情のもとで生まれた子でも、この世に誕生したことは輝ける奇跡である」彼女のこうした言動の一つ一つは、紘子さんの心の奥底深くに刻まれ、人生の指針となっていく。

友人にも恵まれ、異国の地で充実した青春時代を送っていた紘子さん。しかし、卒業を目前に控えた大学4年時、再びヒロシマの呪縛に捕らわれる。現地で出会った米国人の青年と恋に落ちた紘子さんは、ABCCで受けた心の傷から「広島に帰りたくない」との思いを抱き続けていたこともあり、彼との婚約を決意。しかし、この婚約者の叔父にあたる医師が、二人の仲に「ノー」を突きつけたのだ。
「広島の爆心地そばで被爆した娘では、まともな子を産むことはできないだろう」

逃げて逃げて、こんなに遠くまで来ても、どこまでもつきまとってくるヒロシマ。結局、婚約は破談。またも深く傷ついた紘子さんだったが、一方で脳裏にはあの「お姉さんたち」の姿が浮かんでいた。幼い頃、髪を優しくすいてくれた、顔にひどいケロイドを負ったお姉さんたち。やけどでくっついた指を見ながら、「こんな体になったから、婚約者との結婚がだめになっちゃったの」と話していた、あの若く優しい女性たち。
「私は今こんなにつらいけど、お姉さんたちはもっとつらかったんだろうな…」
彼女たちの苦しみに深く共感し、寄り添えたような、そんな不思議な気分だった。

この一件もあり、大学卒業後は日本に帰国。しばらく東京で勤めた後、父・清氏の「広島で平和活動を手伝ってほしい」との強い願いもあり、30歳で結婚した夫と共に1976年、帰郷した。その頃には、あんなにも離れたいと願った故郷への抵抗感は、薄れつつあった。「平和活動に飛び回るばかりで、娘の自分を大事に思ってくれていないのではないか」との寂しさから感じていた父へのわだかまりも、徐々に解け始めていた。「自分はずっと逃げ回って、原爆と向き合うことをしなかったのではないか」たくさんの出会いと確実に流れ行く時間が、紘子さんの心に変化をもたらしていた。
「もう、逃げまい。この地に生まれた私は、私のすべきことをしよう」

紘子さんは現在、結婚から数年後に牧師となった夫と兵庫県三木市の「三木志染教会」で暮らしながら、国内外で核廃絶の重要性を訴え続けている。

  • Story.2
    Koko Kondo

東京の高校を卒業後、5年半にわたって米国に留学した紘子さんは、その間一度も帰国せず、奨学金を得ながら勉学に励んだ。「第二の母」と慕うノーベル賞作家のパール・バック氏との交流を深めたのは、この留学期間の中でのこと。父・清氏が設立した「ヒロシマ・ピース・センター」の賛同者だったパール・バック氏は、自身も戦争孤児などの子どもたちを養子として育てながら、朝鮮戦争で米兵と現地女性の間に混血児として生まれ、行き場のなくなった子どもたちの権利を守ろうと、私財を投じて奔走していた。「どんな事情のもとで生まれた子でも、この世に誕生したことは輝ける奇跡である」彼女のこうした言動の一つ一つは、紘子さんの心の奥底深くに刻まれ、人生の指針となっていく。

友人にも恵まれ、異国の地で充実した青春時代を送っていた紘子さん。しかし、卒業を目前に控えた大学4年時、再びヒロシマの呪縛に捕らわれる。
現地で出会った米国人の青年と恋に落ちた紘子さんは、ABCCで受けた心の傷から「広島に帰りたくない」との思いを抱き続けていたこともあり、彼との婚約を決意。
しかし、この婚約者の叔父にあたる医師が、二人の仲に「ノー」を突きつけたのだ。
「広島の爆心地そばで被爆した娘では、まともな子を産むことはできないだろう」

逃げて逃げて、こんなに遠くまで来ても、どこまでもつきまとってくるヒロシマ。
結局、婚約は破談。またも深く傷ついた紘子さんだったが、一方で脳裏にはあの「お姉さんたち」の姿が浮かんでいた。
幼い頃、髪を優しくすいてくれた、顔にひどいケロイドを負ったお姉さんたち。
やけどでくっついた指を見ながら、「こんな体になったから、婚約者との結婚がだめになっちゃったの」と話していた、あの若く優しい女性たち。
「私は今こんなにつらいけど、お姉さんたちはもっとつらかったんだろうな…」
彼女たちの苦しみに深く共感し、寄り添えたような、そんな不思議な気分だった。

この一件もあり、大学卒業後は日本に帰国。しばらく東京で勤めた後、父・清氏の「広島で平和活動を手伝ってほしい」との強い願いもあり、30歳で結婚した夫と共に1976年、帰郷した。
その頃には、あんなにも離れたいと願った故郷への抵抗感は、薄れつつあった。
「平和活動に飛び回るばかりで、娘の自分を大事に思ってくれていないのではないか」との寂しさから感じていた父へのわだかまりも、徐々に解け始めていた。
「自分はずっと逃げ回って、原爆と向き合うことをしなかったのではないか」
たくさんの出会いと確実に流れ行く時間が、紘子さんの心に変化をもたらしていた。
「もう、逃げまい。この地に生まれた私は、私のすべきことをしよう」

紘子さんは現在、結婚から数年後に牧師となった夫と兵庫県三木市の「三木志染教会」で暮らしながら、国内外で核廃絶の重要性を訴え続けている。

 

 

消すことのできない、
       自分の中の「ヒロシマ」を抱えて

消すことのできない、
自分の中の「ヒロシマ」を抱えて

▲アメリカのテレビ番組
「This is your life」に出演するため、渡米した時の様子

◀アメリカのテレビ番組
「This is your life」に出演するため、渡米した時の様子

 

番組出演後、父・谷本牧師と親交の深かったパール・バック氏の邸宅に滞在した時の写真。前列左から3人目がパール・バック氏、右端が紘子さん▼


パール・バック

米国人作家。幼少期から前半生を中国で過ごし、小説『大地』など中国を舞台にした多くの作品を著した。1938年、ノーベル文学賞を受賞。1949年に孤児のための施設「ウエルカムハウス」を開設し、それを足がかりとして数々の養子縁組を手がけた。


パール・バック

米国人作家。幼少期から前半生を中国で過ごし、小説『大地』など中国を舞台にした多くの作品を著した。1938年、ノーベル文学賞を受賞。1949年に孤児のための施設「ウエルカムハウス」を開設し、それを足がかりとして数々の養子縁組を手がけた。

▲番組出演後、父・谷本牧師と親交の深かったパール・バック氏の邸宅に滞在した時の写真。前列左から3人目がパール・バック氏、右端が紘子さん

▲桜美林高校時代。右が紘子さん

幟町中学校時代。左が紘子さん

▲幟町中学校時代。左が紘子さん

▲アメリカ、センテナリー女子短大在学中の紘子さん

◀アメリカ、センテナリー女子短大在学中の紘子さん

▼東京の外資系企業で働いていた頃

▲東京の外資系企業で働いていた頃

目をそらさず、
受け入れたとき、
新しい人生が始まった

 

夫と娘たちと共に

▲夫と娘たちと共に

▲財団法人「チルドレン・アズ・ザ・ピースメーカーズ」の国際関係相談役として活動する

◀財団法人「チルドレン・アズ・ザ・ピースメーカーズ」の国際関係相談役として活動する

ジョン・ハーシー氏が被爆後の広島をルポしたベストセラー本『Hiroshima』を手に。この本に、父・谷本牧師と紘子さんも登場する。今も各地から講演依頼を受け、精力的に活動する▼

▲二つの母校、センテナリー女子短大とアメリカン大の学校情報誌で、紘子さんの特集やヒロシマ特集が組まれた

▲2018年、社会に革新的影響を与えた人物に贈られる
「Tribeca Disruptive Innovation Award」を受賞

▲ジョン・ハーシー氏が被爆後の広島をルポしたベストセラー本『Hiroshima』を手に。この本に、父・谷本牧師と紘子さんも登場する。
今も各地から講演依頼を受け、精力的に活動する

 

▲2014年、アメリカ・ミズーリ州のウェブスター大学に招かれ、スピーチをした

目をそらさず、受け入れたとき、
            新しい人生が始まった

 

 

 

 

  • Story.3
    Koko Kondo

戦火の中で生まれ、特別な事情を抱えた子どもの権利擁護に取り組んだパール・バック氏や、焼け野原の広島で「精神養子縁組」の活動に尽力した父・清氏に導かれるように、紘子さんは50年ほど前から、米国の大学で学んだ幼児教育や児童心理学、法律の知識を生かし、 「国際養子縁組」(※1) の仲介をする世話役を務めている。

「紘子、将来あなたには、大人の犠牲になった子どもたちのために何かしてほしいの」
一人でも多くの子どもを救いたいと願い、そしてそれを実行に移した第二の母。
紘子さんはパール・バック氏のこの言葉を胸に、虐待などを受けて心に深い傷を負った子どもたちを預かり、一緒に食事をしたり時にお風呂に入ったりしながら、一人一人とじっくりと向き合い、心を尽くす。

そうした時間を共にして考えに考え抜いた結果、その子にとって最良と思われる場合は、養子を願う海外の義父母へと子どもたちを紹介するという。
「送り出した養子は、我が子同然。全て大切な私の子どもよ」
何年たっても、巣立った子どもたちから「アンティ紘子」として慕われ続ける紘子さん。その脳裏にはいつも、幼い頃に近くで見ていた原爆孤児や傷ついた女性たちの姿がある。

「乳児の時に被爆しながら奇跡的に助かった私は、数え切れないほどたくさんの方々の恩恵を受けてここまで来た。これは、その恩返し。助けを求めるこの子たちは、きのこ雲の下で泣き叫んでいた私自身の姿なのよ」
紘子さんもまた、これまで二人の女の子を家族として迎え入れ、大切に育ててきた。
「娘たちは私の誇り。二人との出会いに、心から感謝しているわ」

 

 

 

 

 

“Koko is our child.”

そう言って、幼い私を大切にしてくれた
たくさんの素晴らしい大人たち。

肉親と同じように他者を愛するということ、
心でつながることの尊さを、
私は彼らから学んだの。

誰かを責めるのではなく、互いを思いあい、補いあう心。
person to person
人から、人へ。

一人一人が平和を作り出す存在になれば、
過ちが繰り返されることは決してないはずよ。

“Koko is our child.”

そう言って、幼い私を大切にしてくれた
たくさんの素晴らしい大人たち。

肉親と同じように他者を愛するということ、
心でつながることの尊さを、
私は彼らから学んだの。

誰かを責めるのではなく、互いを思いあい、補いあう心。
person to person
人から、人へ。

一人一人が平和を作り出す存在になれば、
過ちが繰り返されることは決してないはずよ。

 

編集・制作 NPO法人ANT-Hiroshima

写真 石河 真理

文 池田 絵美・後藤 三歌

森下弘

 

森下 弘

 

 

結婚し、初めて子どもを授かったとき、
私は圧倒されました。


目も開かないような、生まれたばかりの娘が
必死に乳房にくらいついている
その生命力に。

そして娘の寝顔を眺めていると、
焼け跡で見た、黒焦げの子どもが
オーバーラップして見えたのです。

そのとき、私の中に強い思いが
湧き起こりました。

もう二度と、子どもたちに
あんな体験をさせてはならない。
私は語らねばならない、と。

結婚し、初めて子どもを授かったとき、
私は圧倒されました。


目も開かないような、生まれたばかりの娘が
必死に乳房にくらいついている
その生命力に。

そして娘の寝顔を眺めていると、
焼け跡で見た、黒焦げの子どもが
オーバーラップして見えたのです。

そのとき、私の中に強い思いが
湧き起こりました。

もう二度と、子どもたちに
あんな体験をさせてはならない。
私は語らねばならない、と。

 

  • Profile
    Hiromu Morishita

森下 弘 (もりした・ひろむ)

1930年(昭和5年)10月26日、豊田郡中野村(現在の大崎上島町)生まれ。両親、祖父母、2歳、7歳年下の妹2人、7人家族。4歳の時、小学校の教員だった父が広島市大芝尋常小学校に転勤となり、同市西白島町に家族で引っ越した。日本は、昭和の大恐慌を経て、日中戦争(1937年)が勃発、太平洋戦争(1941年)へと突入。戦時色に染まる世の中で育つ。白島国民学校を卒業し、1943年、旧制広島一中(現広島国泰寺高)に入学。農村への勤労奉仕や広島航空、東洋工業への動員など、勉強の代わりにひたすら働く。

一中3年生だった1945年8月6日、爆心地から1.5キロで建物疎開作業中に突然、閃光が走り、被爆。顔や手に大やけどを負った。母は西白島町の自宅で建物の下敷きになり、焼死した。父は三菱工場(出張先、草津の寺)、上の妹は靴工場(三篠)で被爆したが無事、下の妹は飯室に疎開して難を逃れた。
その日のうちに、川内村(現安佐南区)の知人宅にたどり着き、約2カ月間はやけどの治療。10月から祖母の疎開先の壬生町(現山県郡北広島町)の叔父宅で療養後、翌1946年1月、父の勤務先があった祇園の寄宿舎へ移り、その夏、顔や首のケロイドを逓信病院で2回手術する。

思春期に母を失った喪失感から、優しさやロマンなど内面的なものを追求するようになる。1948年、広島高等師範学校に進学、翌年、学制改革があり、新制広島大学文学部国文科へ入学。結核を患い、療養、休学が続いた在学中、詩作や小説の執筆など創作活動にのめり込み、病気に苦しむ日々を紛らわせた。
1955年の春、大下学園祇園高等学校教師として教壇に立ち、国語と書道を教える。ずっと被爆でケロイドを負った自分を受け入れられず、県立高校の書道教師となってからも、被爆体験を語ることはなかった。しかし、1961年の結婚から2年後に誕生した長女が授乳される姿を目の当たりにして、生命の力強さを感じ、「二度と子どもたちを犠牲にしてはいけない」と被爆体験を語り出す。

1964年、バーバラ・レイノルズ氏(後に平和団体「ワールド・フレンドシップ・センター」を設立、1990年没)が企画した第2回目の世界平和巡礼に初めて参加し、欧米やソ連(当時)などを巡り、核廃絶を訴えた。米国では、原爆投下を決断したトルーマン元大統領とも面会した。帰国後も、高校生らを対象に原爆意識調査の実施や、被爆教師の会の設立にも尽力、WFC理事長は2012年まで長年務めた。
書家として、1981年に来広したローマ教皇の平和アピールの碑文を揮毫した。「戦争は人間のしわざです」で始まる碑文を刻んだ石碑は今も、広島平和記念資料館で、ロシアによるウクライナ侵攻で揺れる世界へ向けて、強いメッセージを放つ。1983年に詩集『ヒロシマの顔』を出版。1990年に30年間勤務した県立廿日市高校を退職後、島根大、広島文教女子大(現在の広島文教大)で教授として書を教える。90歳を過ぎた今も、平和活動の歩みを止めることはない。

 

 

人生のすべてが狂ってしまった、あの日から

▲昭和11年(1936年)11月3日、白島に
住んでいた頃の家族写真。
森下さん6歳の頃(写真中央)

1945年8月6日。旧制中学3年生、14歳だった森下さんは、その日体調が優れず、医者から休むように言われていた。しかし、一旦出席して翌日から休むことを伝えるように父から言われ、渋々出かけた。爆心地から約1.5キロの鶴見橋のたもとで建物疎開の作業中、突然、閃光が走り、「あまりにも熱くて巨大な溶鉱炉に投げ込まれたようだった」
顔や首に大やけどを負い、周りの友人たちも顔の皮がむけていた。逃げる途中、手を幽霊のように突き出した兵隊の隊列や黒焦げの幼児の死体を目にした。自宅がある西白島町は、陸軍の施設が集まる基町近く。爆心地から、あまりにも近すぎた。その朝、玄関先から見送ってくれた母は帰らぬ人となった。

<父が拾ってきたぼろぼろの母の骨を前に 父と祖母が抱き合って号泣する 傷の痛み疲れ果てた私は 涙さえ出ない>(詩集『ヒロシマの顔』より)

▲「昭和6年(1931年)5月3日」と記された写真。
生後6カ月の頃

「昭和18年(1943年)2月」と記されている。
13歳、旧制広島一中、1年生▼

<父が拾ってきたぼろぼろの母の骨を前に 父と祖母が抱き合って号泣する 傷の痛み疲れ果てた私は 涙さえ出ない>(詩集『ヒロシマの顔』より)

 

母を亡くし、
ケロイドが残った
―心と体に残る傷跡

 

母を亡くした喪失感と悲しみは、思春期になるにつれ、増していった。玄関先で優しく見送ってくれた母が、数日後には白い骨だけに変わり果てる。14歳の少年には、残酷で、受け入れ難い事実だった。「ふとお母さんが現れそうな気がしてね。自分を見守ってくれる存在、優しさを求める気持ちが強くなっていきました」
原爆で、広島の街は崩壊した。「形あるものは崩れ、壊れてしまうものなのか」という虚無感を消し去るように、森下さんは「永遠のもの」「滅びないもの」、ロマンを追い求めていく。
一方で、顔や首に残るケロイドは、「目にみえるトラウマ」となって、森下さんをずっと苦しめ続けた。周りの視線から逃れられない辛さ。鏡を見ることが嫌だった。どうしても自分を受け入れられなかった。
<ドーム それは私のケロイド 逃れられない桎梏しっこく 壊したいけど 壊されない世界が崩れるから>。原爆ドームを自身のケロイドに重ねて、苦悩を吐露した詩が、詩集『ヒロシマの顔』にはある。

▲被爆後の森下さん

▲1946年広島陸軍病院江波分院跡にて。原爆投下後、初めて学友たちと顔を合わせた。「亡くなった友達もいる、私と同じように家族を亡くした者、やけどを負った者もいる。軍国教育の価値観も崩壊し、すべてを失った。再会を素直に喜べる状態ではなく、わあーっ!と叫び出したいような気持ちでした」

森下さんが描いた被爆体験の絵。
自分の見た惨状、体験に加え、友人たちから聞いた体験も織り混ぜて描いた。「閃光、熱線。瞬間、私たち70名の生徒は巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げ込まれた。そして熱風が…(鶴見橋西詰、爆心地から1.5km)」と文章が添えられている

広島平和記念資料館 (所蔵・提供)

▲森下さんが描いた被爆体験の絵。
自分の見た惨状、体験に加え、友人たちから聞いた体験も織り混ぜて描いた。「閃光、熱線。瞬間、私たち70名の生徒は巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げ込まれた。そして熱風が…(鶴見橋西詰、爆心地から1.5km)」と文章が添えられている

広島平和記念資料館 (所蔵・提供)

母を亡くし、ケロイドが残った―心と体に残る傷跡

 

 

 

よく父が、「禿げそのままの悟り」という言葉を
話してくれました。

若い頃から禿げていた、あるお坊さんがいた。
その容姿を恥じるのではなく、
心の清い人になればいいんだよ。

そう言って、ケロイドに悩む私を
慰めてくれたんです。

心の清い人になればいい…。
そして私は、文学や詩、短歌と
内面的なものを追求するようになっていきました。

 

 

よく父が、「禿げそのままの悟り」という言葉を
話してくれました。

若い頃から禿げていた、あるお坊さんがいた。
その容姿を恥じるのではなく、
心の清い人になればいいんだよ。

そう言って、ケロイドに悩む私を
慰めてくれたんです。

心の清い人になればいい…。
そして私は、文学や詩、短歌と
内面的なものを追求するようになっていきました。

 

 

文学に救いを求めて
―日常を深く洞察し、感性を磨く

▲広島高等師範学校(現在の広島大学
教育学部)在学中の森下さん

▲旧広島陸軍被服支厰は、1946年から数年に渡り、広島高等師範学校の校舎として使用されていた。当時の旧被服支厰での貴重な写真

ケロイドに悩む息子の苦悩を知っていた父は、変えることのできない容姿を気に病むのではなく、心を磨けばいい、と励まし続けてくれた。そのことが、その後の人生で「内面的な探求を深めるきっかけになった」と、森下さんは今でも感謝する。広島大学文学部に在学中、詩や小説を書くことに没頭したが、結核にかかって療養が続き、卒業までには6年かかった。「病床で退屈だろうから短歌を作ったらどうか」と友人に勧められ、結社に入って短歌の創作に励んだ。その結社は、人生に「美」を見いだす耽美たんび派。体温計で体温を測る。水銀の目盛りが上がれば、熱がある=「悪」であるはずだが、その動き自体を「美しい」と捉える。日常を見つめることで感性が磨かれていった。雑誌に投稿したり、批評会に参加したりと、病床の暇つぶしだった短歌作りは、いつしか森下さんの生きがいになり、その後の詩作や書道といった創作活動の力となった。

教職に就こうとしていた頃、広島の被爆者の歴史を語る上で欠かせない人たち、河本一郎氏(写真奥中央)、吉川生美氏(写真前列中央)らと出会い、影響を受ける。写真右が森下さん

▲教職に就こうとしていた頃、広島の被爆者の歴史を語る上で欠かせない人たち、河本一郎氏(写真奥中央)、吉川生美氏(写真前列中央)らと出会い、影響を受ける。写真右が森下さん

 

教師となり教壇に立つ
―被爆した事実を明かせぬまま

 

▲当時の大下学園祇園高校で教員として国語と書を教え始めた頃。結核治療を続けていたため、教壇に立つのは週に数日だった

◀当時の大下学園祇園高校で教員として国語と書を教え始めた頃。結核治療を続けていたため、教壇に立つのは週に数日だった

戦後10年が過ぎた1956年、広島平和記念資料館で開かれた原子力平和利用博覧会。森下さんは女学校の引率教員として足を運んだ。「病気を追跡する(ラジオアイソトープ)、飛行機や船の大きなエネルギーになる。原子力は素晴らしいという空気に満ちていた」
だが一方で、資料館には被爆の記憶が残っている。ケロイドの標本や熱線で溶けた遺物などの展示物を見て、「怖い、怖い」「今晩、眠れないかもしれない」と女子生徒たちがささやいていた。教員になり、楽しい日々を過ごしていたが、ふと我に返った。「みんな教壇に立つ私をどう思っているんだろうか。私のケロイドも。醜いものは醜いのでは…」
被爆の話を避けるようになり、教壇から去りたいとまで思った。

教員になった頃の森下さん。広島大学在学中に結核を患い、気胸の治療をするなど、長期療養を余儀なくされた経験から、病床を脱して働けることが本当にうれしかったという

▲教員になった頃の森下さん。広島大学在学中に結核を患い、気胸の治療をするなど、長期療養を余儀なくされた経験から、病床を脱して働けることが本当にうれしかったという

教師となり教壇に立つ―被爆した事実を明かせぬまま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

疲れ切った夜の果てに
川は汚れ 街はおびえ
ドームの上に
人間が人間に命じて
いけにえの火柱が立ち



木端同様に
はりつけられた生命


だから
地図もないままに
旅立った魂は
やさしく装った
広島に再会しても
はじらいとまどってしまう





森下弘作・詩集『ヒロシマの顔』より
「緑のドーム」一部抜粋

疲れ切った夜の果てに
川は汚れ 街はおびえ
ドームの上に
人間が人間に命じて
いけにえの火柱が立ち


木端同様に
はりつけられた生命

だから
地図もないままに
旅立った魂は
やさしく装った
広島に再会しても
はじらいとまどってしまう


森下弘作・詩集『ヒロシマの顔』より
「緑のドーム」一部抜粋

 

 

娘の誕生
―すべての子どもたちの
ために語らねば

▲広島県立廿日市高等学校での書道教諭時代。
被爆教師として平和教育も開始、心血を注いだ

▲「夏になると 子供達は裸が好き だけど
着物を脱がせてはいけない 真っ黒焦げの
幼児が甦ってくる」
森下さんによる書

もう二度とないと信じたはずの戦争は、朝鮮戦争(1950年)で裏切られた。また、自分を苦しめた原爆が使われることになるのか―。ケロイドを持つ者こそ先頭に立って反対運動をすべきではないのか、と反戦運動家から求められたが、ケロイドを「売り物」にはできない、という考え方を乗り越えられなかった。
県立高校で書道教諭となってからも、日々を懸命に生きることで精いっぱいで、あえて過去を振り返ることはしなかったが、30歳を過ぎ、結婚して子どもができたことが転機となった。必死に妻の乳房に食らいつく娘の姿に、力強い生命力と幸せを感じると同時に、被爆後の焼け跡で見た黒焦げの幼児の顔が重なって見えた。「こんな愛おしい子どもたちを、二度とあんなひどい目に遭わせてはいけない」被爆体験を語ることから逃げていた自分の背中を、目も開いていない長女に押された気がした。それが証言活動を始める大きなきっかけとなった。

▲妻・常子(ひさこ)さんと3人の子どもたち。
家族は常に、森下さんの心の支えであった

▲次女、長男とともに

◀〈写真左〉
妻・常子(ひさこ)さんと3人の子どもたち。家族は常に、森下さんの心の支えであった

〈写真右〉
次女、長男とともに

 

平和活動の幕開け
―バーバラ・レイノルズ氏
との出会い

 

▲バーバラさん(写真中央)、小倉馨さん(広島平和文化センター事務局長、広島平和記念資料館館長などを歴任した広島市職員。1979年没)とともに写る森下さん(写真右)

▲アメリカ・イリノイ州にてホストファミリーと

▲平和巡礼出発前の一コマ
写真右が妻・常子さん
写真中央は父と長女
左は常子さんの母

バーバラ・レイノルズ氏(1915-1990)は、ABCC(原爆傷害調査委員会)で働く夫の仕事で1951年に来日した主婦だったが、広島で被爆者と出会ったのをきっかけに平和活動に奔走し、1965年、平和団体「ワールド・フレンドシップ・センター」(WFC)を広島市内に設立。1969年に帰国後も米国で反戦、反核のために走り回った。「実際に会うと優しいおばちゃん。でも、私財を投げ打った活動の裏の質素な生活を見ると、本当に感銘を受けた」と森下さん。WFCの理事長を2012年まで長年務めたのも、バーバラ氏への敬愛の念と、初代理事長で被爆者治療に尽力した外科医・原田東岷とうみん氏(1912-1999)の遺志があったからだ。

森下さんが被爆体験を語る決意をした1960年代は、キューバ危機(1962年)や中国の核実験(1964年)など核兵器を巡る動きは緊迫していた。そんな中、バーバラ・レイノルズ氏が企画した世界平和巡礼を知り、初めて参加。75日間、被爆者ら十数名と通訳で、米国、フランス、ソ連(当時)など8か国を巡り、核廃絶を訴える旅だった。
母を奪い、被爆者として森下さんを苦しめた米国だったが、不思議と渡米への抵抗はなかった。また、米国のNGO関係者ら善意の人々が巡礼を支えてくれていることも知り、憎しみは感じなかった。好奇心も後押しした。

平和活動の幕開け―バーバラ・レイノルズ氏との出会い

 

 

 

 

「Forgive me, Forgive me !」
( 許しておくれ、許しておくれ )

平和巡礼で訪れた米国で、
平和会議が終わり、教会でお祈りしたときでした。

年配の米国人男性が近寄ってきて、
大きな体を揺らせて、おいおい泣くんです。

被爆証言を聞いて、
耐えがたい気持ちだったんでしょうね。

米国にもいるんです。
原爆のむごさに涙し、反戦を願う人々は。

 

 

「Forgive me, Forgive me !」
( 許しておくれ、許しておくれ )

平和巡礼で訪れた米国で、
平和会議が終わり、教会でお祈りしたときでした。

年配の米国人男性が近寄ってきて、
大きな体を揺らせて、おいおい泣くんです。

被爆証言を聞いて、
耐えがたい気持ちだったんでしょうね。

米国にもいるんです。
原爆のむごさに涙し、反戦を願う人々は。

 

 

被爆者として
トルーマン元米大統領
と面会

▲トルーマン元米大統領は壇上でインタビューを受ける形をとった。森下さんら被爆者を含む日本からの一行は、その下で、固唾を飲んでその一部始終を見守っていた
(トルーマン図書館にて)

トルーマン元米大統領と面会後、興奮冷めやらぬ中、筆をとり、感想を綴った貴重なメモ。今も大切に保管している

▲面会を果たした後の森下さん

▲トルーマン元米大統領と面会後、興奮冷めやらぬ中、筆をとり、感想を綴った貴重なメモ。今も大切に保管している

1964年の米国滞在中、バーバラ氏らの計らいで、戦中は「鬼畜米英」の象徴だった トルーマン元米大統領との面会が実現した。トルーマン氏と訪問団長、通訳の3人がステージで対面し、森下さんらは客席で見守った。「ああいうことは二度とあってほしくない」戦争とも、原爆投下とも取れるあいまいな発言だった。多くの米兵の命を救い、戦争を終わらせるために必要だった、と暗に言いたかったのか、と後で感じた。最後に「自分が作った国際連合を通じて国際的な紛争を解決すべきだ」と述べ、わずか3分間の面会は終わった。
トルーマン本人が被爆者の前に出てきただけも評価すべき、という声もあったが、被爆者側からすれば、肩すかしだった。森下さんもがっかりした思いを、当時のメモに綴っている。「あんなむごいことをやって、すまなかったという一言がほしかった。原爆投下決定時に、幼い子どもたちのことは頭をかすめなかったのか」

 

90歳を越えて
―命ある限り語り続ける

 

米国の退役在郷軍人会の席で「我々の主張が正しい」と、トルーマン同様の対応をされることもあった。一方、他の地域では、原爆投下が戦争終結を早めたわけではない、と理解している人々もいた。被爆者の声が被爆地だけでなく、世界に届き、共感してくれる外国人がいることに、大きな意義を感じた。
長年の被爆証言活動にコロナ禍は水を差す形となったが、森下さんはオンラインでの証言も続けている。90歳を超え、耳が聞こえづらかったり、歩くのもつらくなったり、体力の衰えは隠せない。それでも、語ろうとする意思は衰えを見せない。あの夏、残酷な光と熱によって絶命した子どもたち、平和活動に半生を捧げたバーバラ氏、原爆を知らない今の子どもたち…。自宅に保管されたメモや記録、切り抜きなど数万点の資料は、あの日から平和を願い続けてきたヒバクシャ・森下弘の結晶だ。

▲森下さんの書家としての代表作の一つ、それが広島平和記念資料館に展示されている石碑の碑文だ。1981年に来広したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の平和アピール。「被爆者として反核、反戦活動の後ろ盾を得た思いがした」という。碑文の揮毫(きごう)を頼まれ、何度も書き直し、丁寧に仕上げた

▲自宅にはヒロシマ、平和、原爆、書や詩、文学に関する貴重な資料が、圧倒的な量で保管されている

▼自宅2階の書斎にて。ここからオンラインでの証言活動も行っている

 90歳を越えて―命ある限り語り続ける

 

 

 

 

 

「私もまた、被爆者です」

広島平和記念公園(広島市中区)そばにひっそりと立つバーバラ氏の記念碑に、生前の言葉を揮毫したのも森下さんだ。書家としての雅号は、森下清鶴。
今も折にふれ、筆を握っている。

 

 

「私もまた、被爆者です」

広島平和記念公園(広島市中区)そばにひっそりと立つバーバラ氏の記念碑に、生前の言葉を揮毫したのも森下さんだ。書家としての雅号は、森下清鶴。
今も折にふれ、筆を握っている。

 

写真 石河 真理

文 山本 慶史・後藤 三歌

田中稔子

 

田中 稔子

 

 

家の天井が破れ、
屋根が破れ、
青空が見えたんですよ。

「ああ、きれいだなあ」って。

原爆のことも
放射能のことも
きのこ雲のことも
何も知らない
6歳の私。

やけどが痛くて泣きながら、
なぜか青空を見たんですよ。

家の天井が破れ、
屋根が破れ、
青空が見えたんですよ。

「ああ、きれいだなあ」って。

原爆のことも
放射能のことも
きのこ雲のことも
何も知らない
6歳の私。

やけどが痛くて泣きながら、
なぜか青空を見たんですよ。

 

  • Profile
    Toshiko Tanaka

田中とし (旧姓名:原カツ子)

1938年(昭和13年)10月18日、広島市水主かこまち (現在の中区中島町、爆心地から約1キロメートル)に生まれる。父親、母親、2歳年下の妹、6歳年下の妹、戦後に生まれた弟の6人家族。

軍用旅館を営む実家で、宿泊客らにも可愛がられ、活発に育つ。無得幼稚園を1945年3月に卒園後、一人で縁故疎開をし、高田郡の吉田国民学校に入学するが、幼い稔子さんを心配する両親が5月には自宅に連れ帰り、中島国民学校へ移る。しかし、その夏、実家が立ち退きを迫られる。牛田南区(現在の東区牛田早稲田、爆心地から約2.3キロメートル)の親戚の借家へ引越し、牛田国民学校へ転校。原爆投下の1週間前のことだった。

1945年8月6日、稔子さんは6歳。登校前、友達と待ち合わせた桜の木の下で被爆。やけどを負い、命からがら家へ戻った。その夜、高熱を出し、意識を失う。12歳の時に白血球の数値異常と診断された。口内炎が次々とでき、喉は腫れ、ご飯を飲み込むのもやっと。毎日、死の恐怖を感じるほどの倦怠感にも苦しんだ。

幟町中学校2年生の時に生徒会長に立候補するよう、先生に強く勧められるも、生活に追われ、それどころではなかった。服の修繕を請け負っていた母の仕事を手伝い、学校から帰ると父の自転車を借りて、服を配達してまわる日々。その一方で表現活動への憧れから、新聞部の部長になり、活動に打ち込む。中学校卒業後は、幼少期から関心があった絵やデザインの世界へ進もうと決意。4年間、働きながら国泰寺高校定時制に通い、自らの貯金で1958年に東京の文化服装学院へ進学。デザイナーを志し、デザインを学ぶ。

その後、広島に戻り、1964年に25歳で結婚、二人の子どもに恵まれる。姑の勧めによって、呼称を「稔子」に変え、七宝しっぽう 教室に通い始めた。偶然から始めた七宝だったが、彫金七宝作家の斉藤銈一けいいち氏に6年間師事、その面白さに目覚めた稔子さんの作品は日展、現代工芸で認められ、常連作家となる。短期で東京藝術大学やニューヨークのアートスクールにて学ぶなど、常に向上心を持ち活動する。

1981年、広島市長より、広島を訪れたローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世に、稔子さんの作品が贈呈される。
2007年から2017年まで4度ピースボートに乗船。世界を旅しながら、被爆体験証言を行う。
2016年に自宅を「Peace交流スペース」として開放。
現在、七宝作家としては「宇宙を包含する自然と人間の関わり」を主題とし、フリーで作品制作。被爆者としては、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)、ヒバクシャストーリーズ、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)などの活動にも貢献。被爆証言活動を精力的に行っている。

 

 

幼少時代

父(左端)が出征する前の記念写真。
中央が母、母に抱かれているのが稔子さん。
原家の長女として愛された

 

稔子さん生後9ヵ月の頃

 

稔子さん2歳の頃

稔子さんの実家は、広島市水主かこまち (現在の中区中島町)で軍用旅館を営んでいた。宇品港から出征するため、全国から召集された兵隊が、出発前夜を過ごす宿だった。「兵隊さんはみんな、故郷に家族を残して来ているでしょう。だから幼い私が、自分の子どもや親族と重なったんでしょうね。とても可愛がってもらいました」幼い頃から好奇心旺盛で、近所にあった武道の稽古場の練習風景を夜遅くまで見ていて叱られたり、川でシジミを拾って遊んだり。戦時中の厳しい暮らしの中にも、ささやかな日常があった。1945年夏、稔子さんの家の周辺が建物疎開で取り壊されることになり、立ち退きを迫られた。家族で牛田南区(現在の東区牛田早稲田)へ引っ越したのは、原爆投下の1週間前。もしあのまま爆心地から約1キロメートルの水主町で暮らしていたらー。生と死は偶然によって分けられた。

 

被爆し、
生き残った6歳の夏

1945年8月6日の朝、当時6歳だった稔子さんは、桜の木の下で一緒に登校する友達を待っていた。そのとき「敵機だ!」と声がして、空を見上げた瞬間、閃光で目の前が真っ白に。8時15分、原爆投下の瞬間、とっさに顔をかばったため、右腕、頭、左首のうしろにやけどを負った。
何が起こったのか分からないまま、なんとか歩いて家にたどり着いた。髪はジリジリに焼け焦げ、顔も腕も真っ黒、洋服はボロボロ。変わり果てた稔子さんの姿を見て、母は我が子だと気づかなかったという。痛みと恐怖で泣きながら、ふと、穴のあいた家の屋根を見上げると青空が見えた。「ああ、きれいだなあ、って。その瞬間、これで終わりじゃない、明日があるんだ、と感じました」あの時の青空が、今でも稔子さんの脳裏に焼きついている。
やけどは水膨れになり、激痛が走った。その晩、稔子さんは高熱で意識を失った。数日後に目が覚めると、町は死体を焼く臭いであふれていた。

1945年3月、幼稚園卒園時の記念写真。現在の平和記念資料館の場所に、当時、無得幼稚園があり、稔子さんはそこに通っていた。原爆投下は、この5カ月後。一緒に写った仲間の多くが爆死したのではないかー。稔子さんは心を痛める

稔子さん8歳の頃。原爆の放射能は小さな体をおびやかした。12歳の時に白血球の数値異常と診断され、毎日、異常な倦怠感に襲われた。「やけどもしていない友達が亡くなっていくんです。当時、被爆の影響が出ると言われていたのは爆心地から2km以内。私がいた牛田地区は約2.3km。300mの差で『原爆のせいではない』とずっと言われていました」

被爆し、生き残った6歳の夏

 

 

 

まさか自分が「七宝しっぽう」を始めるなんて。

人生が思わぬ方向へ転がることってありますね。

大切なのは、
目の前のことに一生懸命取り組みながら、
自分の夢、目標、使命について
思考し続けること。

そうすれば、たとえ形は変わっても、
いつかきっと、たどり着ける。

私はそう思います。

 

 

まさか自分が「七宝しっぽう」を始めるなんて。

人生が思わぬ方向へ転がることってありますね。

大切なのは、
目の前のことに一生懸命取り組みながら、
自分の夢、目標、使命について
思考し続けること。

そうすれば、たとえ形は変わっても、
いつかきっと、たどり着ける。

私はそう思います。

 

 

上京してデザインの
最先端に触れた青春時代

中学3年生の稔子さん

毎年、学年末には科の修了式が行われた。当時、コシノジュンコ、高田賢三、三宅一生らも在学していたという

文化服装学院に在学中、1年間休学して、台湾の製薬会社のキャンペーンガールになり、4カ月間、台湾各地をまわる。その後、香港、ベトナム、タイ、シンガポールを周遊。一般市民が海外に行くことなどできなかった時代に、元来の好奇心と積極性でアジアを巡る一人旅を経験した
(写真左が稔子さん)

戦後の暮らしは決して楽ではなかった。定時制高校で学びながら働き、貯めたお金で東京の文化服装学院へ進学、デザインを学んだ。腕を見込まれて著名なデザイナーから弟子にならないかと声をかけられたが、貯金が尽き、帰郷を決めた。
広島で見合い話があり、1964年、25歳で結婚。二人の子どもに恵まれ、専業主婦として子育てに追われていたある日、姑が七宝教室を勧めてきた。軽い気持ちで始めた習い事だったが、七宝作家の斉藤銈一氏に出会い、七宝の可能性を見出だす。それから稔子さんは作品制作に没頭、独自の世界を切り開いた。伝統工芸を重んじていた師匠からは生意気だと言われることもあったが、次々と受賞を重ね、活躍の場を広げていく。
数十年がたち、あるとき大きな荷物が届いた。「斉藤先生の大切なお道具とお手紙が入っていました。『あなたが一番よくできていました』と書いてあって…認めてくださっていたんですね。先生が亡くなる数カ月前のことでした」

 

帰郷して始めた
七宝しっぽうの世界にのめりこむ

七宝作家として徐々にその頭角を現し、1978年から日本現代工芸展にて連続入選、1979年には日展初入選、計16回入選、と輝かしい功績を築いていった稔子さん。1981年には、初めて広島を訪れた故ヨハネ・パウロ2世へ、広島市から稔子さんの作品が贈られた。また同年、米国広島・長崎原爆被爆者協会の据石すえいしかず氏から、ある依頼が舞い込んだ。「在米被爆者が被爆者手帳を取得するために、アメリカに広島から医師団を呼びたいが、資金が足りない。何かできないだろうか?」と。
当時の広島市国際交流課長の協力で、ロサンゼルスの日米文化会館にて、日米親善七宝展を開催することになった。稔子さんは七宝作家を代表してその取りまとめを行い、全国の作家から作品を募り、また自らも出品して、展示販売。約2週間の展示期間で得た収益はすべて米国広島・長崎原爆被爆者協会に寄付した。こうして、稔子さんの芸術活動は、ごく自然に平和活動につながっていった。

稔子さんの恩師・七宝作家の斉藤銈一氏
(右から2人目)

1981年、アメリカでの日米親善七宝展にて。写真右から3人目が稔子さん。
「『はだしのゲン』の英語版200冊と、他の原爆図書計400冊を持って行き、寄付しました。米国被爆者協会の方が各図書館に寄付してくださいました」

 

アメリカの七宝専門誌「glass on metal」1994年4月号では田中稔子特集が組まれた

■七宝とは…
金属の素地にガラス質の釉薬を焼きつけて装飾する技法、および、その工芸品。一般的にはアクセサリー制作のイメージが強いが、稔子さんは、七宝にステンレスを組み合わせた大型の壁面作品を考案。斬新な作品を次々に世に送り出している。

帰郷して始めた七宝しっぽうの世界にのめりこむ

 

 

 

 

 

 

大海原の上で
世界がつながっていることを体感しました。

宇宙から見れば、地球はまるで小さな船
私たちはみな、一つの船の乗組員です。

ある場所でのいさかいは、必ず全体に影響する。

だからこそ、
核兵器を作ってはいけない、
持ってはいけない、
使ってはいけない、
地球上からなくさなければいけない。

被爆者としての悲願です。

大海原の上で
世界がつながっていることを体感しました。

宇宙から見れば、地球はまるで小さな船
私たちはみな、一つの船の乗組員です。

ある場所でのいさかいは、必ず全体に影響する。

だからこそ、
核兵器を作ってはいけない、
持ってはいけない、
使ってはいけない、
地球上からなくさなければいけない。

被爆者としての悲願です。

 

 

ピースボートで世界へ
 70歳で始めた被爆証言

ピースボートで世界へ
70歳で始めた被爆証言

 

ピースボートへの乗船、ベネズエラでの出会いを通して、被爆証言活動を始めた稔子さん。一度開いた心の扉からは、長年抱えてきた思いと言葉が次々とあふれ出た

いつも活動を見守ってくれていた最愛の夫を、2005年に亡くし、大きな喪失感の中にあった稔子さん。2007年のある日、新聞広告でピースボートを知った。元来の旅好きもあって、すぐに応募を決める。
船旅の途中で、ガダルカナルやラバウルにも立ち寄った。そこは、戦時中、稔子さんの実家の旅館で最後の夜を過ごした兵隊たちが旅立った先だった。自分を可愛がってくれた兵隊たちの面影をしのびながら、悲しみの中、同乗者と共に慰霊祭を行った。
多くの被爆者がそうであるように、当時はまだ、自身の被爆体験を語ることに前向きではなかった稔子さん。しかし、転機が訪れる。それは、2008年、ベネズエラを訪れた時だった。「被爆者には、原爆によって何が起こったかを伝える義務がある」一人の市長から掛けられたこの言葉が稔子さんを変えた。南米のテレビ局、テレスールの衛星放送を通じて、稔子さんはベネズエラの地から、70歳にして初めて被爆証言を行った。これを皮切りに、被爆証言活動を開始。現在までに世界約80カ国以上を旅し、学生から科学者、研究者まで、幅広い人々を対象に被爆証言を続けている。

 

たった一人との出会い
から平和は始まる

2010年5月、国連本部で行われた核不拡散条約(NPT)再検討会議にあわせ、数百名の被爆者が渡米。一部は残って25の中学・高校で証言活動を行った。ちょうど、NPOヒバクシャストーリーズの一員として招かれ、ニューヨークに滞在中だった稔子さんは、別途、外国からの移民が多いクイーンズ地区の公立高校を訪れた。
生徒の中にパレスチナ出身の少年がいた。イスラエル軍に親戚を殺され、想像を絶するつらい幼年時代を送った彼は、アメリカに移住してもイスラエルを憎み、心を閉ざしていた。そんな彼に、稔子さんは「恨みを恨みで返す復讐の輪を断ち切るには、どこかで誰かが許すことが必要」と語った。稔子さんとの出会いをきっかけに、彼は多様な考え方を受け入れる力を身につけ、学校の先生が驚くほど内面的な変化を遂げたという。
二人のエピソードは書籍『奇跡はつばさに乗って』(源和子 著/講談社)にも紹介されている。

「原爆によって被爆し、やけどを負い、クラスメイトを亡くしたのに、どうしてあなたはアメリカを許せるのですか?」と語ったパレスチナ出身の男の子。
稔子さんとの出会いが彼の内面を大きく揺さぶった

初めての出会いから数年後、成長した彼と彼の恩師。
この本に稔子さんとのエピソードが書かれている

たった一人との出会いから平和は始まる

 

 

 

 

自宅のアトリエを開放し、
世界中の人を受け入れて

自宅のアトリエを
開放し、世界中の人を
受け入れて

 

トルーマン元大統領※
の孫とその家族とともに

 

エノラ・ゲイ※のビーザー乗組員の
孫のアリ・ビーザー氏とともに

 

被爆証言を始めて、七宝の制作にも変化が現れた。「花鳥風月、美しいものだけでは物足りなくて、平和や核兵器廃絶を表現するサインのようなものを、作品のどこかに入れています」と稔子さん。自宅1階を「Peace交流スペース」として開放し、壁面には自身の七宝作品を飾る。国内外から多くの人がこの場所を訪ねてやってくるという。2012年には、トルーマン元大統領の孫、ダニエル氏の家族が訪れた。「ダニエルの奥さんと一緒に小さなアクセサリーを作ってね。彼女、とても喜んでいましたよ。これって平和じゃありません?」と目を輝かせる。憎しみの連鎖を断ち切るためには、人を許すこと。アメリカの中学生に話したことを、そのまま実践している稔子さん。そのベースには、世界中を旅し、様々な国の人々と出会った体験がある。「海外に友達を作ってください。友達がいたらね、相手の国との間に問題が起こったときに、『爆弾を落としてしまえ』なんて思わないでしょう」

 

広がる平和の輪ピースリング
アメリカの枯山水庭園の
砂紋をデザイン

マーティン・マッケラー氏(フロリダ大ハーン美術館、枯山水庭園管理者)が中国新聞社の金崎由美氏に相談したことから、稔子さんとのコラボレーション案が浮上。
2020年9月21日、国際平和デーに合わせて、アメリカ国内5カ所の枯山水庭園で、稔子さんがデザインした図案に基づき、砂紋引きが行われた。その模様は映像作品にもまとめられている。2021年からは北米日本庭園協会の毎年の公式行事となり、開催地も14カ所に増えた。テキサス州のフォートワース植物園や、原爆を開発した「マンハッタン計画」の拠点だったテネシー州オークリッジの庭園など9州にある庭園と、戦争中に日系人強制収容所があったカリフォルニア州のマンザナー国定史跡など枯山水のない2カ所も参加。平和を希求する静かな表現活動が、アメリカで広がりを見せている。

 

この企画の発案者は、フロリダ大ハーン美術館のマーティン・マッケラー氏。1998年に京都を訪れた際、修学旅行生に呼び止められ、平和アンケートを受けたことがきっかけで「平和のために自分たちにできることはないか」と模索を始めたという

 

稔子さん直筆のデザイン画。実際の庭園の面積を縮尺で計算し、「へ」「い」「わ(輪)」をモチーフに、デザインした模様を描いた

広がる平和の輪ピースリング
   アメリカの枯山水庭園の砂紋をデザイン

 

 

 

 

6歳だった、あの日

原爆がもたらした、圧倒的な破壊の中で
垣間見た青い空が

今も私を励まし、
導いてくれるのです。

絶望の中にも
希望はある、と。


亡くなった同級生たちを想い、
生き残った者の使命を果たして
いきたいですね。

核兵器はこの地球にいらない!と
一人でも多くの人に
思ってもらうために。

 

 

 

6歳だった、あの日

原爆がもたらした、圧倒的な破壊の中で
垣間見た青い空が

今も私を励まし、
導いてくれるのです。

絶望の中にも
希望はある、と。


亡くなった同級生たちを想い、
生き残った者の使命を果たして
いきたいですね。

核兵器はこの地球にいらない!と
一人でも多くの人に
思ってもらうために。

 

 

 

 

 

 

 

自身の作品を展示し、平和交流の場として開放して
いる自宅1階の「Peace交流スペース」にて。
稔子さんの作品には、地球を俯瞰するような宇宙
的視野を感じるものが多い。世界中の国々を訪れ、
人種を越えた交流を重ねてきた経験が、作品に投影
され、深みを与えている。

 

自身の作品を展示し、平和交流の場として開放して いる自宅1階の「Peace交流スペース」にて。稔子さんの作品には、地球を俯瞰するような宇宙的視野を感じるものが多い。世界中の国々を訪れ、人種を越えた交流を重ねてきた経験が、作品に投影され、深みを与えている。

 

写真 石河 真理

文 吉本 絢・後藤 三歌

鎌田七男

 

鎌田 七男

 

 

診察室で、施設で、
これまで多くの被爆者の方々に接してきました。

みなさんは私を「先生」と呼んでくれますが、
みなさんこそ、私の「先生」なのです。

 

 

診察室で、施設で、
これまで多くの被爆者の方々に接してきました。

みなさんは私を「先生」と呼んでくれますが、
みなさんこそ、私の「先生」なのです。

 

  • Story.1
    Nanao Kamada

鎌田七男

1937年3月20日、満州奉天(今の中国・瀋陽)に、鎌田家の七男として生まれる。父は電気工事の会社を営み、一家は日本人村にて安泰な生活を送っていた。赤ん坊の七男さんを抱いてあやしてくれていたという鎌田家の長男・正巳さんは、満州医科大学(現在の中国医科大学)に進学したが、卒業前に病死。長男を失った両親の悲しみは深く、七男さんは幼少の頃から「医師になることを期待されていた」と感じていたという。

その後、小学校に入学、1945年当時は8歳。8月15日に終戦を迎え、日本は敗戦。それから生活が一変する。日本人村を守るため、父と三男・三郎さんが電気柵を外周2kmにはりめぐらせるなど、生活環境は厳戒態勢へ。そんな中、持病の結核が再発した父は、1946年5月6日に死去。鎌田家は日本に引き揚げることになる。

長い船旅を経て仙崎(現在の山口県長門市)に到着、1946年7月17日、鎌田家のルーツである鹿児島にたどり着く。七男さんは慣れない鹿児島弁に戸惑いながらも徐々に順応し、持ち前の活発な性格で、小学校、中学校とスポーツや勉学に励む。中学3年の夏、出稼ぎに出ていた三男・三郎さんを頼って、母と共に福岡県田川市へ転居、県立田川東高校(現在の福岡県立東鷹とうよう高等学校)へ進学。医学の道を志し、受験雑誌「蛍雪時代」を頼りに、広島大学に照準を定めるが、受験倍率は7.2倍。父を亡くし、兄の世話になっていた家計では「浪人をするという選択肢はない」。高すぎる倍率に不安がよぎり、父親代わりだった兄につぶやくと、返事は「やってみんと分からん」。この兄の言葉に発奮し、再び前を向き直して猛勉強。結果は見事合格。ここから七男さんの新しい人生が始まる。

 

 

満州から九州へ、
時代の波を乗り越えて

 

父・政吉さんは1890(明治23)年、薩摩半島伊作村(現在の鹿児島県日置市)で生まれた。次男で農地を継ぐことができなかったため、当時の流れで満州へ渡った

 

 

父の期待に応えて医学の道を志し、大学に進学するも、1939(昭和14)年病死した長男・正巳さん。その志を七男さんが引き継いだ

 

父亡き後、親代わりとして物心両面で支えてくれた3番目の兄・三郎さんと、父親不在でも引け目を感じることのないように育ててくれた母・そめさん。
写真は1952(昭和27)年、2回目の脳卒中後(母)

父亡き後、親代わりとして物心両面で支えてくれた3番目の兄・三郎さんと、父親不在でも引け目を感じることのないように育ててくれた母・そめさん。写真は1952(昭和27)年、2回目の脳卒中後(母)

安泰だった満州での暮らしは、日本の敗戦後に一変した。信頼していた知人の裏切り、日本人街をうろつくロシア兵や八路軍兵、父親の死去、遺骨と残された家族の身一つの引き揚げ…そこには惨めさ、悔しさ、悲しみ、不安、いろんな気持ちが交錯していた。のちに医師として多くの被爆者と出会い、時に看取ることになった七男さん。「人のつらさに寄り添う、という人間としての下地は、この幼年期の経験から培われているのかもしれません」。

支えられ、
期待を背負って、
医学の道へ

医師となった七男さんは、1998年、奇しくも鎌田家の長男・正巳さんの母校で講演を行うことになった。その機会に兄弟も渡航、懐かしの地をみなで訪ねた(左から六男、七男、三郎、五男)

 

兄弟間で近況を報告し合った
鎌田家新聞「つどい」

幼い頃、苦労を共にし、またいつも末っ子の七男さんを助けてくれた兄たち。成人してからはそれぞれ他県に暮らす。離れていてもお互いの近況を知らせ合おうと、筆まめな兄たちが兄弟新聞を企画。1961年から2005年の44年間にわたって文面での交流を続けた。「僕は研究などで忙しく、なかなか近況も伝えられなかったから、兄たちによくせっつかれましたね(笑)。地道に続けて送ってくれて、今では当時を思い出すいい記録になり、財産です」。文章や資料をまとめ、記録に残すことを大切にする七男医師の几帳面さは、兄弟ゆずりなのかもしれない。

支えられ、期待を背負って、医学の道へ

 

 

 

  • Story.2
    Nanao Kamada

高倍率を突破して、1955年、広島大学医学部進学課程に見事合格。「亡き父の願い、母や兄たちの期待に応えられたと思うと、涙が出ました」。被爆から10年を経た広島での暮らしが始まった。当時の広島市内は、ガランとした広い大通り(現在の平和大通り)が東西を貫き、川沿いにはバラックがぎっしりと立ち並んでいた。「電車に乗ると、真夏なのに長袖を着た人、帽子を目深に被っている人を見かけました。ああ、被爆者なんだな、と」。そこには被爆の面影がまだ色濃く残っていた。

兄3人の仕送りや家庭教師のアルバイト、奨学金でまかなう生活は楽ではなかったが、専門書の購入などへの出費は惜しまなかった。勉強に励むと同時に、入部したヨット部での練習にも打ち込んだ。1960年、23歳の時、第1回宮島一周ヨットレースの二人乗りのスナイプ級で、なんと優勝。このヨット部でのつながりが、その後、七男さんの将来を大きく変えることになる。

大学卒業後の1961年、福岡の九州厚生年金病院(現在のJCHO九州病院)で1年間インターンを経験。当初は外科志望だった。「僕の性格には外科が向いていると思っていた。ところが当時、まだ医療用の手袋がなかったので、手術に携わるたびに、手をたわしでこすって洗う。すると手がかぶれてしまって…皮膚炎ですよ」。これでは外科でやっていけない。どうすればいいのか、と悩んでいたところにヨット部時代の先輩から声がかかった。「うちに来いよ」。先輩が所属していたのは同年、広島大学に設置されたばかりの原爆放射能医学研究所(原医研)。翌1962年4月1日には大学病院に被爆内科が新設されるという。全国的にも世界的にもまだめずらしい部門。未知の分野での仕事に七男さんの心が動いた。

1962年、25歳の時、広大原医研・臨床第一研究部門被爆内科に入局。そこで部門の初代教授、朝長正允氏に出会う。朝長教授は長崎医科大学出身、血液内科学の専門家で、かの永井隆博士の後輩かつ主治医でもあったドクターだ。原爆被爆者の白血病と一般の白血病とは違うのか?原爆被爆者の白血病発症のメカニズムは?…そのことを突き止めるために、朝長教授は七男さんに染色体研究を命じた。
午前中は広島大学医学部附属病院被爆内科で外来を担当、夕方までは入院病棟の患者の対応。染色体の研究は深夜に及んだ。研究仲間との努力が実を結び、原爆被爆者の血液の中に、慢性骨髄性白血病に見られるフィラデルフィア染色体を発見。1962年11月「慢性骨髄性白血病の早期発症例」を発表した。原爆投下から17年。七男さんの「被爆者と共に歩む人生」の幕開けである。

 

 

 

 

1945年8月6日 8時15分

爆心地から500m以内の、ある小学校で
偶然、地下室にいたため
一命を取り留めた8歳の少年

原爆で親兄弟を亡くし、
親戚をたらい回しにされたのち孤児収容所へ

社会に出て結婚し、やっと幸せを掴んだが
胃がんを患い、2度の手術を経験
初孫を白血病で亡くす
息子は父を気遣い、
長く我が子の病名を明かさなかった

 

 

そののち原爆放射線に関連する間質性肺炎を患い、
呼吸をするたびに苦しんだ

彼の染色体異常率は21%

被爆から60年余りの、ある年の瀬、
彼は自ら命を断った

 

 

核兵器は、
それによって被爆した人間を
肉体的、社会的、精神的、すべての面で
生涯虐待し続けるのです。

 

 

 

左記は、七男医師が長年交流を続けた近距離被爆者の中の、あるお一人の人生だ。
即死もまぬがれないほどの近距離で、奇跡的に一命を取り留めた人々。しかしその体や心、生活実態は、大きく蝕まれていた。被爆後70年までの追跡調査の中で66人が亡くなった。「亡くなった方の約半数ががんに侵されていました。原爆投下時に浴びた放射線によって、一瞬にして各臓器の幹細胞のDNAが傷つけられ、そこから長年かかって、がん細胞が発生したと考えられます。臓器ごとに放射線に対する感受性が異なるので、時期を違えてがんを発症する。転移ではなく二つ目や三つ目のがんが多いのはそのためです」。核兵器は、人間を遺伝子レベルで傷つけ、その人生を生涯にわたって傷めつける。世界中でどれだけの人が、その事実を知っているだろう?

 

1945年8月6日 8時15分

爆心地から500m以内の、ある小学校で
偶然、地下室にいたため
一命を取り留めた8歳の少年

原爆で親兄弟を亡くし、
親戚をたらい回しにされたのち孤児収容所へ

社会に出て結婚し、
やっと幸せを掴んだが
胃がんを患い、2度の手術を経験
初孫を白血病で亡くす
息子は父を気遣い、
長く我が子の病名を明かさなかった

 

そののち原爆放射線に関連する間質性肺炎を患い、呼吸をするたびに苦しんだ

彼の染色体異常率は21%

被爆から60年余りの、ある年の瀬、
彼は自ら命を断った

 

核兵器は、
それによって被爆した人間を
肉体的、社会的、精神的、すべての面で
生涯虐待し続けるのです。

 

上記は、七男医師が長年交流を続けた近距離被爆者の中の、あるお一人の人生だ。
即死もまぬがれないほどの近距離で、奇跡的に一命を取り留めた人々。しかしその体や心、生活実態は、大きく蝕まれていた。被爆後70年までの追跡調査の中で66人が亡くなった。「亡くなった方の約半数ががんに侵されていました。原爆投下時に浴びた放射線によって、一瞬にして各臓器の幹細胞のDNAが傷つけられ、そこから長年かかって、がん細胞が発生したと考えられます。臓器ごとに放射線に対する感受性が異なるので、時期を違えてがんを発症する。転移ではなく二つ目や三つ目のがんが多いのはそのためです」。核兵器は、人間を遺伝子レベルで傷つけ、その人生を生涯にわたって傷めつける。世界中でどれだけの人が、その事実を知っているだろう?

 

 

被爆者と共に
歩んだ研究者人生

1967年(29歳)アメリカ・カリフォルニア大学へ留学(写真1)
1970年(33歳)英語論文「骨髄性細胞染色体に及ぼす放射線の影響」を長崎大へ提出、博士号を取得
1972年(35歳)爆心地から半径500m以内の被爆生存者についての調査研究「原医研プロジェクト」を担う

(写真1)サンフランシスコ メディカルセンター臨床病理部門にて、研究者としての学びを深めた

1978年(41歳) 英語論文を国際血液学会などで発表、
世界的な教科書「ウイントロープ臨床血液学」に掲載される
1982年(45歳) 「原爆後障害研究会」で重ねた報告が、広島県医師会より
「広島医学賞」を受ける。プロジェクトチーム11人の代表として受賞
1985年(48歳)広大原医研 血液学研究部門 教授に就任(写真2)
1988年(51歳)IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部理事に就任
1991年放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)発足
1997年~99年
(60歳~62歳)
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)会長
2000年(63歳)茨城県東海村へ赴き、臨界被曝事故調査と支援にあたる(写真3)広大原医研を退職
1967年(29歳)アメリカ・カリフォルニア大学へ留学(写真1)
1970年(33歳)英語論文「骨髄性細胞染色体に及ぼす放射線の影響」を長崎大へ提出、博士号を取得
1972年(35歳)爆心地から半径500m以内の被爆生存者についての調査研究「原医研プロジェクト」を担う

 

1978年(41歳) 英語論文を国際血液学会などで発表、
世界的な教科書「ウイントロープ臨床血液学」に掲載される
1982年(45歳) 「原爆後障害研究会」で重ねた報告が、広島県医師会より
「広島医学賞」を受ける。プロジェクトチーム11人の代表として受賞
1985年(48歳)広大原医研 血液学研究部門 教授に就任(写真2)
1988年(51歳)IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部理事に就任
1991年放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)発足
1997年~99年
(60歳~62歳)
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)会長
2000年(63歳)茨城県東海村へ赴き、臨界被曝事故調査と支援にあたる(写真3)広大原医研を退職

(写真1)サンフランシスコ メディカルセンター
臨床病理部門にて、研究者としての学びを深めた

(写真2) 教授就任を祝して。
前列中央が本人

(写真2) 教授就任を祝して。
前列中央が本人

(写真3)原医研医療チームの一員として、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOにおける臨界被曝事故の調査と支援に

生涯のテーマ「爆心地から半径500m
近距離被爆者の医学的研究」

原医研と広島市、NHKの共同研究で発見された、爆心地から半径500m以内の被爆生存者78名。その医学的追跡調査を任された七男医師は、定期的な健康診断、染色体異常率からの被曝線量の推定、血清レベル・細胞レベルでの放射線に起因する異常性、遺伝子異常の検出などを行っていった。被爆者の方々との対話を重視し、何気ない呟きや訴えの中にもヒントを見つけた。「頭痛がある、という方が何人かおられ、気になってCTを撮った結果、髄膜腫を発見しました。これはかなりめずらしい病気です。検査を重ねた結果、爆心地から1km以内の被爆者に髄膜腫が高率で発症していることが判明したのです」。

2017年には講演会も行った

近距離被爆者の追跡調査から得た知見

  • 家族崩壊・家族形成障害
    (未婚、離婚、孤老)(1975)
  • 染色体の異常(悪性化の素地)(1975)
  • 健常被爆者にがん遺伝子変化(1990)
  • 二つ目、三つ目のがん発症(2004)
  • 精神面で、年と共に不安の増強(2006)
  • 原爆は「生涯虐待」の状況を
    作り出す(2018)

※( )内は発表年

 

「研究によって、医学界一般に貢献する新しいエビデンスを多数突きとめた。すべては被爆者が身をもって示し、導いてくれたのです」。骨髄穿刺、皮膚生検、度重なる血液採取…痛い思いをすることになる検査に、長年協力してくださった被爆者の方々への深い感謝と敬意から、七男医師は広島大学を退官してからも、自費や休日を充てて定期的な健康診断と対話を重ね続けた。電話やメールでコミュニケーションをとり、出張先からはお土産を送る。かたときもその存在を忘れたことはない。

◀話しかける時は、相手の目線の高さに合わせ、まず相手の話を聴く。「医師として」の前に、「人として」相手を尊重する姿勢が、七男医師の根本にある

話しかける時は、相手の目線の高さに合わせ、まず相手の話を聴く。「医師として」の前に、「人として」相手を尊重する姿勢が、七男医師の根本にある

 

 

それまでの僕は、
放射線が人体に与える影響を研究するには
近距離で被爆した人、
高線量を浴びた被爆者を診なければ分からない
と信じていた。


原爆養護ホームで出会った
様々な被爆体験を経た、入園者のみなさんが
僕の見ていた世界を
大きく広げてくれました。

 

 

 

 

それまでの僕は、
放射線が人体に与える影響を研究するには
近距離で被爆した人、
高線量を浴びた被爆者を診なければ分からない
と信じていた。

原爆養護ホームで出会った
様々な被爆体験を経た、入園者のみなさんが
僕の見ていた世界を
大きく広げてくれました。

 

 

 

  • Story.3
    Nanao Kamada

2000年、医師・研究者として駆け抜けた広島大学での38年間を終え、一般病院での職を経て、2001年から公益財団法人 広島原爆被爆者援護事業団理事長、および広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長に転身。報酬は大きく減ったが、七男医師に迷いはなかった。「被爆者のために貢献できる仕事。私の中で何の遜色もありませんでした」。
「被爆者の目線、公正の原則、誠実な対応」と自らの行動訓を定め、現場に出ることを望んだ。入園者や職員とのコミュニケーションをとるため、また、園内の小さな変化や問題点への気付きを得るために、たじろぐ職員たちを説き伏せ、理事長室を出て施設内を歩き回った。入園者の楽しみを作るために、1年に25の催しを企画。入園者の高齢化にともない、ベッドで過ごす人も増えたため、ホールでの催しを居室でも同時に見られるようにテレビの配線工事をし、みなが同じ話題でつながれるように工夫した。
そしてすべての職員の顔と名前を覚えた。その数、194名。「被爆者の方々に、安心して心豊かに暮らしていただくためには、そのサポート役である職員を大切にしなければならない。当たり前のことですよ」。職員の能力と意欲の向上のために、労を惜しまなかった。職員研修を行い、放射線が人体に与える影響などについて何度も話した。広島県から胃瘻・喀痰吸引研修の教育施設としての認定を受け、多くの資格取得者を輩出。また早い時期から看取りを取り入れ、高齢化した被爆者に尊厳ある最期を迎えてもらうための介護・看護に、園全体で取り組んだ。忘年会では、各種資格を取得した職員を表彰し、七男医師が自ら作成した記念写真入りのアルバムを贈呈。そして職員と一緒になって歌い、踊るユーモアも忘れなかった。
一方で、社会的活動や学術発表も精力的に行った。入市被爆や内部被曝、被爆2世の研究を深めたのも、様々な形での被爆を経験しているのぞみ園の入園者との出会いが大きく影響した。
園で過ごした16年間、七男医師の毎日は、朝5:30起床、8:30から20:30まで働き、23:30就寝。原爆養護ホームという特別な職場の責任者として、また研究者として、高い理想を掲げ、全力を出し切った。「大学で研究に没頭していた時代に勝るとも劣らない、充実した時間でしたね」。そのエネルギーは、今もとどまることはない。

  • Story.3
    Nanao Kamada

2000年、医師・研究者として駆け抜けた広島大学での38年間を終え、一般病院での職を経て、2001年から公益財団法人 広島原爆被爆者援護事業団理事長、および広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長に転身。報酬は大きく減ったが、七男医師に迷いはなかった。「被爆者のために貢献できる仕事。私の中で何の遜色もありませんでした」。

「被爆者の目線、公正の原則、誠実な対応」と自らの行動訓を定め、現場に出ることを望んだ。入園者や職員とのコミュニケーションをとるため、また、園内の小さな変化や問題点への気付きを得るために、たじろぐ職員たちを説き伏せ、理事長室を出て施設内を歩き回った。入園者の楽しみを作るために、1年に25の催しを企画。入園者の高齢化にともない、ベッドで過ごす人も増えたため、ホールでの催しを居室でも同時に見られるようにテレビの配線工事をし、みなが同じ話題でつながれるように工夫した。

そしてすべての職員の顔と名前を覚えた。その数、194名。「被爆者の方々に、安心して心豊かに暮らしていただくためには、そのサポート役である職員を大切にしなければならない。当たり前のことですよ」。職員の能力と意欲の向上のために、労を惜しまなかった。職員研修を行い、放射線が人体に与える影響などについて何度も話した。広島県から胃瘻・喀痰吸引研修の教育施設としての認定を受け、多くの資格取得者を輩出。また早い時期から看取りを取り入れ、高齢化した被爆者に尊厳ある最期を迎えてもらうための介護・看護に、園全体で取り組んだ。忘年会では、各種資格を取得した職員を表彰し、七男医師が自ら作成した記念写真入りのアルバムを贈呈。そして職員と一緒になって歌い、踊るユーモアも忘れなかった。

一方で、社会的活動や学術発表も精力的に行った。入市被爆や内部被曝、被爆2世の研究を深めたのも、様々な形での被爆を経験しているのぞみ園の入園者との出会いが大きく影響した。

園で過ごした16年間、七男医師の毎日は、朝5:30起床、8:30から20:30まで働き、23:30就寝。原爆養護ホームという特別な職場の責任者として、また研究者として、高い理想を掲げ、全力を出し切った。「大学で研究に没頭していた時代に勝るとも劣らない、充実した時間でしたね」。そのエネルギーは、今もとどまることはない。

 

一人でも多くの人に、
  ヒロシマの真実を伝えるために

一人でも多くの人に、
ヒロシマの真実を
伝えるために

 

2001年(64歳)財団法人広島原爆被爆者援護事業団理事長、
広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長に就任(写真1)
2002年(65歳)永井隆平和記念・長崎賞を受賞(写真2)
2005年(68歳)「広島のおばあちゃん」出版(写真3)
2006年(69歳)原爆後障害研究会で「入市被爆者白血病」について発表
2007年(70歳)PTSDシンポジウム(イタリア)に参加・報告
2008年(71歳)IPPNW(核戦争防止国際医師会議)世界大会(インド)で発表
2011年東日本大震災が発生
福島県へ赴き、被曝調査にあたる(写真4)
2012年(75歳)「福島内部被曝線量」について発表
IPPNW世界大会(日本)に参加・発表
2015年(78歳)世界核被害者フォーラム(広島)を運営、同報告書監修(写真5)
2016年(79歳)「肺がん組織で証明された内部被ばく」について発表
2017年(80歳)財団法人広島原爆被爆者援護事業団
および広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園 退職
広島大学客員教授 就任
医療法人 仁康会 本郷中央病院 健診センター長 就任
2018年(81歳)平成30年7月豪雨の災害を機に、上記病院を退職
広島原爆障害対策協議会(健康管理・増進センター) 非常勤勤務

 

(写真1)

▲(写真1)当時、西日本一の入園定員を持っていた「のぞみ園」は、その特性上、多様な人々が来訪した。平和学習に訪れる小・中学生、研修医や介護実習生、皇族や時の総理など。緊張感が高まる場面も多い職場だが、だからこそ、何よりも入園者の幸せと職員のやりがいを重視する運営に心を砕いた

 

▼(写真2)永井隆博士は恩師・朝長教授が主治医として最期まで寄り添われた患者であった。感慨深い受賞

(写真2)

▶(写真3)のぞみ園での職員研修のために用意したテキストを本として再編集し、平和教育教材として自費出版。その売り上げはすべて事業団に寄付することを公約・実行。その後、英語・フランス語・ドイツ語の翻訳版を作成、IPPNWボストン本部のウェブサイトから全文を閲覧・ダウンロード可能とし、ヒロシマの真実を世界に発信している。

 

▼(写真3)のぞみ園での職員研修のために用意したテキストを本として再編集し、平和教育教材として自費出版。その売り上げはすべて事業団に寄付することを公約・実行。その後、英語・フランス語・ドイツ語の翻訳版を作成、IPPNWボストン本部のウェブサイトから全文を閲覧・ダウンロード可能とし、ヒロシマの真実を世界に発信している。

(写真3)

 

▼(写真4)2011年5月、原医研出身で福島市在住の医師、斎藤紀(おさむ)医師と共に、独自に調査。福島県飯館村や川俣町住民から採尿と共に2か月間の行動を聞き取り、浴びた放射線量を個人ごとに推定し発表(2012年)。

(写真4)
(写真5)

(写真5)世界核被害者フォーラム
(2015年広島)を運営

  学術発表 ※( )内は発表年

直接被爆者
の研究
  • 白血病の素地となる被爆者骨髄細胞に染色体異常が長く持続していること(1969)
  • 染色体異常から被爆した線量を推定できること
  • 健常な高線量被爆者に他人の染色体異常を誘発する因子(血清因子)のあること(1978)
  • 半致死線量(半分のヒトが30日以内に死亡する放射線量)は3.5-4Svであること(1989)
  • 健常な被爆者骨髄細胞DNAにがん遺伝子(RAS)変異のあること(1988)
  • 思春期に被爆した人での乳がん多発(1989)、脳腫瘍の多発(1997)を新事実として報告
並行して血液専門分野では慢性骨髄性白血病進展過程を解明(1978)、8;21転座型白血病の存在を初めて発表(1968,1976)、4つの白血病の転座型遺伝子配列を解明など
入市被爆者
の研究
1970-1990年の間に入市被爆者から発生した白血病患者113人を解析。8月6日と7日に入市した被爆者に白血病発症率が、全国の発症率と比べて3.4倍高いことを発表(2006)
被爆2世
の研究
原医研データベースを用いて被爆2世を解析。119,311人を同定。県内の被爆2世数は13万~13万5千人と推定(2010)さらに、その中から94人の白血病発症者を確認し、親の両方が被爆している場合は、片方のみの場合より発症頻度が高いことを発表(2012)また、親の被爆から約10年以内に生まれた2世に発症リスクが高いことを報告(2014)
内部被曝
の研究
爆心地から離れた場所にいて直接放射線を受けていなくても、「黒い雨」の降った地域にいて汚染雨水や汚染野菜を食べた人で、被爆50年後より肺がん、胃がん、大腸がん、血液病を患った症例を報告(2008)その人の肺がん組織からウランの崩壊とみられる放射線の飛跡を乳剤感光法で証明(2016)

 

 

原子爆弾が落とされた街は、
世界中で二つしかない。

原子爆弾が落とされた国は、
世界中で一つしかない。

核兵器の非人道的な破壊を体験した人たちが
今まさに、
私たちのそばにいるのです。

私たちにできること
私たちにしかできないこと
私たちがしなければいけないこと

一人一人が考え、
行動していかなければなりません。

原子爆弾が落とされた街は、
世界中で二つしかない。

原子爆弾が落とされた国は、
世界中で一つしかない。

核兵器の非人道的な破壊を体験した人たちが
今まさに、
私たちのそばにいるのです。

私たちにできること
私たちにしかできないこと
私たちがしなければいけないこと

一人一人が考え、
行動していかなければなりません。

 

編集・制作 NPO法人ANT-Hiroshima

写真 石河 真理

文 後藤 三歌

清水惠子

 

清水 惠子

 

 

私は被爆者手帳を持っていません。

でも私の
目が
肺が
血液が

体のあちらこちらが
私に訴えてくるのです。

「あなたはヒバクシャです」と。

 

 

私は被爆者手帳を持っていません。

でも私の
目が
肺が
血液が

体のあちらこちらが
私に訴えてくるのです。

「あなたはヒバクシャです」と。

 

  • Story.1
    Keiko Shimizu

清水惠子 (旧姓・秋元惠子)

1943年(昭和18年)12月23日、広島市桐木きりのき町(現在の南区)に生まれる。1945年3月、賀茂郡造賀村(現在の東広島市)の親戚宅に縁故疎開。父親は出征しており不在で、母親は妊娠中だった。

1945年8月6日、母は1歳7カ月だった惠子さんを背負い、洗濯物を干していた。8時15分、母は、それまで感じたことのない「ドーン」という空気の圧力のようなものを感じ、思わず自分と娘の頭に洗濯物を被せて伏せたという。それが広島に落とされた原子爆弾によるものだったと知ったのは、後になってからだった。
翌日から村には広島で被爆した大勢の人々が逃げ帰ってきた。村人総出で被爆者の看護にあたり、身重だった母もその一員として働いた。しかし母は体調不良を訴えるようになり、当時幼かった惠子さんの世話ができないため、熊野(安芸郡熊野町)の親戚に預けようと祖父が連れ出し、広島駅周辺を訪れる。結局、多くの親戚が身を寄せていたため熊野には預けられなかったが、この時に惠子さんは入市被爆したと考えられる。

2歳を過ぎた頃から、目の調子が悪くなり、斜視になる。1946年春ごろには、祖父が所有していた段原(広島市南区)の家に引越し、親戚も一緒に暮らす大所帯となる。
その後、歯茎から出血して食事がとれなくなったことや、小学生の頃には肺結核や肋膜炎を患い、長期欠席したこともあった。大量の鼻血が出たり、下痢やひきつけを起こしたりすることもめずらしくなかった。そしてそれは弟の武さんも同様だった。

 

家族写真

家族で訪れた宮島にて、幼き頃。
前列右端が惠子さん

疎開先の造賀村で、被爆者の救護に従事した母、当時そのお腹にいた弟。
原爆投下後の広島に足を踏み入れた幼き日の惠子さん。
3人は被爆者手帳を持っていなかったが、それぞれ、様々な苦しみを背負った。
笑顔のかわいい弟が、その後、33歳という若さで短い生涯を終えることになると、誰が想像できただろうか。

1954年撮影。両親、弟と一緒に。左端が惠子さん。
病気を患い、体は弱かったが、
家族の愛に包まれていた子ども時代

感性を育んだ
子ども時代

終戦から10年後の1955年12月23日、12歳の誕生日に
写真館で撮影した写真。当時はオペレッタの練習に毎週通っていた

歌を歌うのが大好きで音楽の授業も得意だった惠子さんを、小学3年生の時の担任の先生が子どもオペレッタ(劇団)に誘った。この子ども時代の表現活動の体験が、その後、惠子さんを朗読の世界へ導くことになる。

子どもオペレッタの出演者と

感性を育んだ子ども時代

 

1956年1月28日
寒い冬の午後でした。

広島市内の子どもたちが
幟町のぼりちょう中学校 に集まり

「原爆の子の像を作ろう!」
学校も、学年も越えて
気持ちが一つになりました。

被爆して10年たって亡くなった
禎子さだこ さん の死は、
私たちにとって
「自分自身の問題」だったんです。

 

 

 

 

1956年1月28日
寒い冬の午後でした。

広島市内の子どもたちが
幟町のぼりちょう中学校 に集まり

「原爆の子の像を作ろう!」
学校も、学年も越えて
気持ちが一つになりました。

被爆して10年たって亡くなった
禎子さだこさん の死は、
私たちにとって
「自分自身の問題」だったんです。

 

  • Story.2
    Keiko Shimizu

段原小学校5、6年生の時の担任・尾形静子先生に出会ったことで、惠子さんの人生に変化が起こる。小学校卒業を控え、友人と卒業文集づくりをしていた時、尾形先生から声をかけられた。「いろんな学校の生徒が集まって話し合う、大切な会があるから二人で行ってきてほしいの」

1956年1月28日、小雪のちらつく寒い日の午後、幟町中学校で持たれた会には、広島市内のほとんどの小学校児童会、中学・高校の生徒会のメンバーが集まった。その場で、原爆投下から10年後に白血病で亡くなった 佐々木禎子さんの同級生 が、「原爆の子の像」建立の協力を訴え、参加者全員の賛成で「広島平和をきずく児童・生徒の会」が誕生した。それ以来、惠子さんも友人と共に、会の一員として募金活動など様々な活動に奔走し始める。

こうして多くの子どもたちの努力とそれを支える大人たちの陰のサポートによって、「原爆の子の像」は完成した。1958年5月5日、行われた除幕式には、当時、段原中学校3年生、15歳だった惠子さんも出席していた。

 

恩師・尾形静子先生を偲ぶ

 

 

戦争が激しくなり、教師のほとんどが戦争に駆り出されていた当時、女学校を卒業したばかりの18歳の尾形先生も、代用教員として 広島市広瀬国民学校 の教壇に立っていた。爆心地から約1.2キロメートルの広瀬国民学校で被爆した先生は、ほぼ全身にやけどやけがを負う。 
その後、段原小学校へ異動となり、惠子さんが5、6年生の時の担任に。 
「先生は、原爆の後障害によるしんどさを抱えながら、度々、私たちを平和資料館に引率してくださいました。先生の思いは私の中に今なお生き続けています」1971年、44歳の若さで先生は亡くなった。 すい臓がんだった。

子どもたちの力で
生まれた、
原爆の子の像

「広島平和をきずく児童・生徒の会」は、「原爆の子の像」建立のための募金活動を筆頭に、寄付者へのお礼状作成、被爆者の方のお見舞い、原爆孤児や障がいのある子どもたちの施設のお見舞いや慰問、子どもの被爆者実態調査、平和学習や話し合いなど、幅広く活動していた。
「イギリスやハンガリーなど海外からも寄付やお手紙をいただきました。事務室として使っていた幟町中学校の図書室の一角でお礼状を書いたものです。広島の子どもたちが始めた活動が、日本全国、世界へと広がっていったのです」
子どもたちの活動は映画『千羽鶴』(1958年製作/木村壮十二監督/共同映画社)にも収められている。

中国新聞社提供
1958年5月5日、「原爆の子の像」除幕式。
この群衆の中に、惠子さんもいる

子どもたちの力で生まれた、原爆の子の像

 

  • Story.3
    Keiko Shimizu

1964年、広島県立女子短期大学国文科を卒業。
1966年から広島県庁に勤務し、1969年に結婚、そして退職。
幸せな20代を過ごしたが、その中で脊髄の病気を発症、入院・手術を経験した。それからは時折体調を崩すことはあっても比較的元気に過ごす。

1996年~1998年、ワールド・フレンドシップ・センターにてピースガイド。
1999年から英語朗読劇グループ「オリアンダー」に所属。
60歳を過ぎて血液の難病にかかり、肺がんも発症。入院や手術を繰り返すようになる。

惠子さんの母は、戦後3年たって子宮結核になり、60代後半からは直腸がん、胃がん、肝がんを発症、87歳で亡くなった。母は救護被爆をしていた可能性がある。
生前、惠子さんと同様に数々の病気を患い、33歳で亡くなった弟・武さんは、死亡後の解剖で急性白血病だったと分かった。1945年8月、被爆者の救護にあたった母のお腹の中にいた武さん。そのことと、あまりにも早い死との間に、関係はなかったのだろうか。

戦後、被爆者への差別により苦しむ親戚の姿を見ていた父の方針で、親子3人の被爆者手帳の申請はしなかった。「私も母も弟も、たくさん病気を患いましたから、手帳を持っていたら少しは負担が楽だったのに、と思うこともあります」

2004年からは国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて朗読ボランティアを開始。
2013年~2015年、広島平和記念資料館にて平和学習講師を担当。
2017年からは、朗読劇グループ「PILE」を主宰。

病気を抱えながらも、惠子さんは文化的なアプローチで、地道な平和活動を続けている。

  • Story.3
    Keiko Shimizu

1964年、広島県立女子短期大学国文科を卒業。
1966年から広島県庁に勤務し、1969年に結婚、そして退職。
幸せな20代を過ごしたが、その中で脊髄の病気を発症、入院・手術を経験した。それからは時折体調を崩すことはあっても比較的元気に過ごす。

1996年~1998年、ワールド・フレンドシップ・センターにてピースガイド。
1999年から英語朗読劇グループ「オリアンダー」に所属。
60歳を過ぎて血液の難病にかかり、肺がんも発症。入院や手術を繰り返すようになる。

惠子さんの母は、戦後3年たって子宮結核になり、60代後半からは直腸がん、胃がん、肝がんを発症、87歳で亡くなった。母は救護被爆をしていた可能性がある。
生前、惠子さんと同様に数々の病気を患い、33歳で亡くなった弟・武さんは、死亡後の解剖で急性白血病だったと分かった。1945年8月、被爆者の救護にあたった母のお腹の中にいた武さん。そのことと、あまりにも早い死との間に、関係はなかったのだろうか。

戦後、被爆者への差別により苦しむ親戚の姿を見ていた父の方針で、親子3人の被爆者手帳の申請はしなかった。「私も母も弟も、たくさん病気を患いましたから、手帳を持っていたら少しは負担が楽だったのに、と思うこともあります」

2004年からは国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて朗読ボランティアを開始。
2013年~2015年、広島平和記念資料館にて平和学習講師を担当。
2017年からは、朗読劇グループ「PILE」を主宰。

病気を抱えながらも、惠子さんは文化的なアプローチで、地道な平和活動を続けている。

 

 

原爆の惨禍の中
生き残った子どもたちの力で
「原爆の子の像」が生まれたように

焼け野原だったヒロシマが
生き残った市民の力で
緑の街に生まれ変わったように

私たちは小さな存在ですが
無力ではありません。

平和は私たちがつくるもの。

声を上げ、行動しましょう。
あなたにできる「何か」を見つけて。

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠とわ のみどり/原民喜

ヒロシマのデルタに
若葉うずまけ
死とほのお の記憶に
よき祈よ こもれ

とわのみどりを
とわのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ

 

『原民喜詩集』1951.7『小さな祈り』(汐文社)より

 

 

 

 

 

 

原爆の惨禍の中
生き残った子どもたちの力で
「原爆の子の像」が生まれたように

焼け野原だったヒロシマが
生き残った市民の力で
緑の街に生まれ変わったように

私たちは小さな存在ですが
無力ではありません。

平和は私たちがつくるもの。

声を上げ、行動しましょう。
あなたにできる「何か」を見つけて。


永遠とわ のみどり/原民喜

ヒロシマのデルタに
若葉うずまけ
死とほのお の記憶に
よき祈よ こもれ

とわのみどりを
とわのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ

 

『原民喜詩集』1951.7『小さな祈り』(汐文社)より

 

写真 石河 真理

文 後藤 三歌

西岡誠吾

 

西岡 誠吾

 

 

1945年8月6日
私は中学1年生だった。

午前8時15分
一発の原子爆弾が広島の街に落とされた。

あの日、 建物疎開 に出かけた
私の同級生192人は、
全員死んだ。

中島新町、爆心地から約600m。

熱線に灼かれ、爆風に飛ばされ、
顔も分からぬ姿となって。

1945年8月6日
私は中学1年生だった。

午前8時15分
一発の原子爆弾が広島の街に落とされた。

あの日、 建物疎開 に出かけた
私の同級生192人は、
全員死んだ。

中島新町、爆心地から約600m。

熱線に灼かれ、爆風に飛ばされ、
顔も分からぬ姿となって。

 

 

Profile

西岡誠吾

1931年(昭和6年)10月25日、大阪市港区に生まれる。その後、広島市西白島町へ転居。
両親と二人の兄の5人家族で、3人兄弟の末っ子。戦時中の厳しい暮らしの中でも、家族の愛情を受けて暮らしていた。

1945年、広島県立広島工業学校(現・県立広島工業高校)に入学。8月6日は、体調がすぐれなかったため、中島新町(広島市中区、爆心地から約600メートル)での建物疎開作業を休み、千田町(広島市中区、爆心地から約2キロメートル)の学校内の作業に出向いた。それが運命の分かれ道になるとも知らずに。校門を入る時、B29の爆音がかすかに聞こえ、「警報が解除になったのに変だな、と思った」建物疎開に出ていた同級生は全員死亡。西岡さん自身も顔や体にけがややけどを負った。最初は広陵中学校の収容所、8月9日には坂村の収容所へ移動。8月15日に、父親の郷里である生口島の親戚宅へたどり着く。「顔に巻いた包帯から血がにじみ、ウジ虫がはい出て、周りの人は私を避けていました」1年生は全員死んだ、と聞かされていた家族や親戚は、西岡さんを見て幽霊だと思ったという。

親戚の手厚い看護を受けて、徐々に回復。母親の実家に身を寄せての苦しい生活の中、奨学金を得て勉学を続けた。社会に出てからは、設計業務、発電所業務に従事し、35年間の会社員生活を送る中で結婚、二人の子どもに恵まれる。これまでに急性すい炎、肝障害、胆のう炎、腸閉塞などを患い、手術や入退院を繰り返した。自身の被爆体験をまとめた紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」を制作、広島平和記念資料館に寄贈した。2019年、リニューアルされた広島平和記念資料館東館で、西岡さんが当時身につけていた衣服と共に展示された。二人の息子とそれぞれの妻、5人の孫に囲まれ、幸せに暮らすかたわら、原爆により無残な最期を遂げた友や広島市民のことを片時も忘れたことはなく、自らの戦争・被爆体験を語り継ぐ活動を地道に続けている。

 

Profile

西岡誠吾

1931年(昭和6年)10月25日、大阪市港区に生まれる。その後、広島市西白島町へ転居。
両親と二人の兄の5人家族で、3人兄弟の末っ子。戦時中の厳しい暮らしの中でも、家族の愛情を受けて暮らしていた。

1945年、広島県立広島工業学校(現・県立広島工業高校)に入学。8月6日は、体調がすぐれなかったため、中島新町(広島市中区、爆心地から約600メートル)での建物疎開作業を休み、千田町(広島市中区、爆心地から約2キロメートル)の学校内の作業に出向いた。それが運命の分かれ道になるとも知らずに。校門を入る時、B29の爆音がかすかに聞こえ、「警報が解除になったのに変だな、と思った」建物疎開に出ていた同級生は全員死亡。西岡さん自身も顔や体にけがややけどを負った。最初は広陵中学校の収容所、8月9日には坂村の収容所へ移動。8月15日に、父親の郷里である生口島の親戚宅へたどり着く。「顔に巻いた包帯から血がにじみ、ウジ虫がはい出て、周りの人は私を避けていました」1年生は全員死んだ、と聞かされていた家族や親戚は、西岡さんを見て幽霊だと思ったという。

親戚の手厚い看護を受けて、徐々に回復。母親の実家に身を寄せての苦しい生活の中、奨学金を得て勉学を続けた。社会に出てからは、設計業務、発電所業務に従事し、35年間の会社員生活を送る中で結婚、二人の子どもに恵まれる。これまでに急性すい炎、肝障害、胆のう炎、腸閉塞などを患い、手術や入退院を繰り返した。自身の被爆体験をまとめた紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」を制作、広島平和記念資料館に寄贈した。2019年、リニューアルされた広島平和記念資料館東館で、西岡さんが当時身につけていた衣服と共に展示された。二人の息子とそれぞれの妻、5人の孫に囲まれ、幸せに暮らすかたわら、原爆により無残な最期を遂げた友や広島市民のことを片時も忘れたことはなく、自らの戦争・被爆体験を語り継ぐ活動を地道に続けている。

思い出の一枚

 

戦後、広島駅前の闇市にできた荒川写真館で撮ってもらった一枚の写真。
当時、写真を撮ることはとても贅沢なことだったので、「小さな写真でもうれしかった」。
1946年2月ごろ撮影。

 

 

 

 

青い空に
一すじの飛行機雲・・・

きれいだ、と思いますか。

私はB29を思い出して
今でも怖くなる

 

1945年4月8日、西岡さんは県立広島工業学校に入学した。緊張し、希望に燃えていた入学式を終え、授業を受けていたのは新入生だけ。上級生はみな学徒動員で軍需工場へ行って働いていた。そのうちに1年生も動員作業に駆り出されるようになった。芋畑の開墾や、防空壕の土砂運搬、建物疎開など…12~13歳の子どもが、暑さや空腹と闘いながら、それでも戦争に勝つことを信じて、重労働に従事していたのだ。

8月6日。西岡さんはその日体調がすぐれず、建物疎開に行くことをあきらめ、学校での作業へ出かけた。8時15分。建物疎開の現場、中島新町は爆心地から600メートル。作業に出ていた同級生たちは、たった一発の原爆によって想像を絶する姿になり、全員亡くなった。偶然、建物疎開に行かなかったために一命をとりとめた西岡さんの胸には、いつも、自分だけが生き残ったことへの罪の意識、誰にも看取られることなく非業の死を遂げた同級生たちの姿がある。

 

青い空に
一すじの飛行機雲・・・

きれいだ、と思いますか。

私はB29を思い出して
今でも怖くなる

 

1945年4月8日、西岡さんは県立広島工業学校に入学した。緊張し、希望に燃えていた入学式を終え、授業を受けていたのは新入生だけ。上級生はみな学徒動員で軍需工場へ行って働いていた。そのうちに1年生も動員作業に駆り出されるようになった。芋畑の開墾や、防空壕の土砂運搬、建物疎開など…12~13歳の子どもが、暑さや空腹と闘いながら、それでも戦争に勝つことを信じて、重労働に従事していたのだ。

8月6日。西岡さんはその日体調がすぐれず、建物疎開に行くことをあきらめ、学校での作業へ出かけた。8時15分。建物疎開の現場、中島新町は爆心地から600メートル。作業に出ていた同級生たちは、たった一発の原爆によって想像を絶する姿になり、全員亡くなった。偶然、建物疎開に行かなかったために一命をとりとめた西岡さんの胸には、いつも、自分だけが生き残ったことへの罪の意識、誰にも看取られることなく非業の死を遂げた同級生たちの姿がある。

 

親友・伊藤 稜夫いづお くんを想う

親友・伊藤 稜夫いづお くん
を想う

中学校の同級生、
伊藤稜夫さん

国立広島原爆死没者
追悼平和祈念館提供

原爆投下から4カ月後の1945年12月、歩けるまでに回復した西岡さんは、同級生が亡くなった建物疎開の現場を訪ねた。「伊藤!伊藤!」と友の名を叫ぶも、返事はない。ハーモニカが上手で、灯台守のお父さんを誇りに思っていた伊藤稜夫くん。入学して4カ月、毎日のように一緒に遊んでいた親友は、一発の原子爆弾の犠牲になり、家族と会うこともないまま亡くなった。

孫娘が描いた原爆の惨状

「港の船の間に浮き沈みする死体」2010年度制作

  広島平和記念資料館(所蔵)
被爆体験証言者/笠岡貞江さん
制作者/西岡優華さん(63回生)

広島市立基町高校  創造表現コースの生徒たちは、被爆者の方々から被爆体験や被爆の惨状を聞き取り、それを絵に描き起こす活動に取り組んでいる。2010年当時、そのメンバーの中に西岡さんの孫娘もいた。被爆者の方の辛い過去への思いをすくい取り、「このような惨劇を繰り返してはならない」という使命感を持って、孫娘・優華さんは描いたという。

孫娘が描いた原爆の惨状

戦争体験を
紙芝居に残す

思い出すのも辛く苦しい戦争、そして被爆の記憶。自身の中に封印してきた思い出を、戦争を知らない世代へ引き継ぐため、西岡さんは書き綴った。紙芝居『少年・十三歳の原爆体験』は、広島平和記念資料館に収蔵されている。

国鉄芸備線矢賀駅近くの山で
掘られていた防空壕。

西岡さんら中学生は二人一組で
モッコを担ぎ、土砂を運搬した

国鉄芸備線矢賀駅近くの山で掘られていた防空壕。
西岡さんら中学生は二人一組でモッコを担ぎ、土砂を運搬した

暑さで酸っぱくなった弁当も
米粒一つ残さず食べ、

汗とほこりで顔に黒い筋ができるほど、
必死で建物疎開作業に従事した

暑さで酸っぱくなった弁当も米粒一つ残さず食べ、
汗とほこりで顔に黒い筋ができるほど、必死で建物疎開作業に従事した

アウシュヴィッツで知った絵筆の力

アウシュヴィッツで
知った絵筆の力

1967年~69年の間に、ポーランドへの長期出張を3度経験した西岡さん。忘れ難い現地での出会いや思い出と共に、今なお胸に残るものがある。それはアウシュヴィッツを訪れた際に見た絵だ。
「そこで起こったことが瞬時に理解できた。絵は言葉を超える!そう思いました」これをきっかけに、西岡さんは自分の被爆体験を絵で表現するようになった。素朴なタッチの中にリアリティが詰まった絵は、当時について詳細な記憶を持つ西岡さんならではの作品だ。

 

 

 

今までに4回救急車のお世話になり、手術や入退院を繰り返した。
急性すい炎、肝障害、胆のう炎、腸閉塞。
これからまだまだ続くだろう。

医者が言った。
「被爆との関係はよく分からないが、
なぜか被爆者にこのような内臓疾患が多い」と。

ある人は言った。
「被爆者は医療費がタダじゃけえ、すぐ病院に行く」と。

私の従兄弟は、 健康管理手当 を受給していたが、
近所の人に「税金泥棒」と陰口をたたかれ、受給を取り消した。

被爆者は好んで被爆したのではない。

 

原爆投下の瞬間。それは、西岡少年が、ちょうど校門を入って 御真影 に最敬礼した時だった。「あつい!あつい!」と叫びながら、思わず身を縮めて足踏みをした。すると爆風が来て吹き飛ばされた。地面に伏せ、目と耳を覆って横たわっていると、物がばんばん飛んできて、瓦が雨のように降ってきた。足が梁のようなものに挟まれ身動きができなかった。幸運にも助け出されたが、顔や手が見る見る間に水ぶくれになり、左足は血で真っ赤に染まった。学校の場所は、爆心地から約2キロの千田町。原爆は西岡さんの体の表面だけでなく、体の中をも蝕んでいる。

 

今までに4回救急車のお世話になり、
手術や入退院を繰り返した。
急性すい炎、肝障害、胆のう炎、腸閉塞。
これからまだまだ続くだろう。

医者が言った。
「被爆との関係はよく分からないが、
なぜか被爆者にこのような
内臓疾患が多い」と。

ある人は言った。
「被爆者は医療費がタダじゃけえ、
すぐ病院に行く」と。

私の従兄弟は、 健康管理手当 を受給していたが、近所の人に「税金泥棒」と陰口をたたかれ、受給を取り消した。

被爆者は好んで被爆したのではない。

 

原爆投下の瞬間。それは、西岡少年が、ちょうど校門を入って 御真影 に最敬礼した時だった。「あつい!あつい!」と叫びながら、思わず身を縮めて足踏みをした。すると爆風が来て吹き飛ばされた。地面に伏せ、目と耳を覆って横たわっていると、物がばんばん飛んできて、瓦が雨のように降ってきた。足が梁のようなものに挟まれ身動きができなかった。幸運にも助け出されたが、顔や手が見る見る間に水ぶくれになり、左足は血で真っ赤に染まった。学校の場所は、爆心地から約2キロの千田町。原爆は西岡さんの体の表面だけでなく、体の中をも蝕んでいる。

 

 

原発と原爆

その根源は同じである。

ヒロシマを経験し、被爆した私が
そのことに気づいていなかった。

2011年3月11日、あの日まで。

 

今から数十年前、発電所に勤務していた西岡さんは、広島市内で行われた原子力発電についての講演を聴きに行ったことがある。内容は「原子力発電は安全・安心でコストが非常に安い。これからの日本の経済発展には絶対、原子力発電が必要である」というものだった。講演が終わると聴講者は全員立ち上がり、拍手が鳴りやまなかったという。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。福島原発の事故が起こった時、西岡さんはあの講演を思い出した。「あの頃、みんな、原発は素晴らしいと信じ切っていた。なぜ核の恐ろしさに誰も気がつかなかったのか。今になって『原発』と『原爆』のもとは同じであることに気がついている」

原発と原爆

その根源は同じである。

ヒロシマを経験し、被爆した私が
そのことに気づいていなかった。

2011年3月11日、あの日まで。

 

今から数十年前、発電所に勤務していた西岡さんは、広島市内で行われた原子力発電についての講演を聴きに行ったことがある。内容は「原子力発電は安全・安心でコストが非常に安い。これからの日本の経済発展には絶対、原子力発電が必要である」というものだった。講演が終わると聴講者は全員立ち上がり、拍手が鳴りやまなかったという。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。福島原発の事故が起こった時、西岡さんはあの講演を思い出した。「あの頃、みんな、原発は素晴らしいと信じ切っていた。なぜ核の恐ろしさに誰も気がつかなかったのか。今になって『原発』と『原爆』のもとは同じであることに気がついている」

 

写真 石河 真理

文 後藤 三歌

※健康管理手当については、厚生労働省HP

岡田恵美子

 

岡田 恵美子

 

 

12歳だった姉は
あの朝、
空襲警報解除になったあと、出かけたんよ。

元気よく「行ってきます」と言うて
出て行ったきり、
いまだに帰ってこないんよ。

想像してみてね。

あなたの家族の誰かが
「行ってきます」と出かけたきり
帰ってこなかったら。

12歳だった姉は
あの朝、
空襲警報解除になったあと、
出かけたんよ。

元気よく「行ってきます」と言うて
出て行ったきり、
いまだに帰ってこないんよ。

想像してみてね。

あなたの家族の誰かが
「行ってきます」と出かけたきり
帰ってこなかったら。

 

Profile

岡田恵美子(旧姓・中迫)

1937年(昭和12年)1月1日、広島市尾長町に生まれる。

父、母、4歳年上の姉、3歳年下の弟、5歳年下の弟の6人家族だった。
1945年8月6日、原爆投下により8歳で被爆。
当時12歳だった姉は、その日建物疎開のため家を出たまま帰らぬ人となる。
その後、恵美子さんは比治山中学・高等学校へ進学し、洋裁学校へ。

戦時中、松本工業学校(現在の瀬戸内高校)に勤務していた父は、娘を失った苦しみに加え、それまで軍事教育をしてきた者として、民主教育に切り替えることの罪悪感から退職。工具店を始めるが、時代の流れの中で倒産。両親は東京の息子を頼って上京、恵美子さんだけが広島に残る。家の借財を返すため、洋裁学校で学んだ技術を生かし、洋裁店を開く。生活に追われる日々の中で結婚、無我夢中の生活を送る。
その後、生活の目途が立ち、二人の子どもにも恵まれたが、中学1年生に成長した長男を交通事故で亡くす。その深い悲しみをきっかけにファッションの仕事から身を引く。

1987年、50歳の時、アメリカで平和活動をする人を募集するワールド・フレンドシップ・センター(WFC)の新聞記事を見て、応募。被爆者の一人として渡米が決定し、日本文化を紹介することに。アメリカでバーバラ・レイノルズ氏と出会う。これをきっかけに平和活動に目覚め、広島の原爆だけでなく、日中戦争、沖縄戦、南京大虐殺、ベトナム戦争、湾岸戦争、地雷などについて自主的に学び始める。

1999年からヒロシマ ピース ボランティアの活動を開始、広島平和文化センターで被爆体験証言をスタート。
2000年、ウクライナのキーウで被爆証言。 原発事故被害者と出会う。
2005年、被爆60周年プロジェクト「広島世界平和ミッション」の一員としてインド・パキスタンへ渡る。
2007年、全米原爆展にて被爆証言を行う。
2009年、孫と共にニューヨークへ渡り、国連本部で被爆証言を行う。
映画『アトミック・マム』に出演。
近年では、ヒバクシャ国際署名、核兵器禁止条約採択のための緊急行動などにも積極的に関わり、精力的に活動を行った。
2021年4月、WFCの会合に参加中、急逝。享年84。

 

家族写真1

写真左から姉、恵美子さん、弟、母、後ろは父

恵美子さんの姉・中迫美重子さんは、1945年当時、12歳。広島 第一県女 の女学生で両親自慢の娘だった。「カーテンに隠れて内緒話をしたりね。ごく普通の仲の良い姉妹だったんよ」姉は8月6日の朝、 建物疎開 に出かけたまま、帰らぬ人となった。
土橋 が建物疎開の集合場所だったんですよ。そこから原爆投下後、姉がどう行動したのか、全く分からない。一人で逃げ惑い、苦しんで亡くなったのではないことを祈りたい」。

姉の手紙

両親は姉・美重子さんの行方を必死で捜した。遺体が見つからないのは、どこかで生きているからではないか、と。「母は当時妊娠していたけど、流産してね。両親は姉の死亡届も出してないと思う。だから供養塔の中に姉の名前は刻まれてないの」建物疎開に駆り出され、一発の原子爆弾に焼かれて亡くなっていった子どもたち。その数は約6,000人と言われている。「考えてみて。12歳、13歳くらいと言ったら、まだ幼さが残る子どもよ。その子たちが身につけていた帽子、制服、ボタン、校章…。 資料館 にあるのはレプリカじゃない、全部遺品。子どもが犠牲になるようなことは絶対にあったらいけん」恵美子さんの手元には、姉・美重子さんの書いた手紙が残っている。「出征する従兄宛てに姉が書いた手紙が、戻ってきて。姉の遺品はこれだけです。お骨も何も見つかっていないから」

「私はねぇ、今も玄関の鍵を開けたまま
 姉の帰りを待っとるんよ。
『お姉ちゃんお帰りなさい』と言いたくて」

「私はねぇ、今も玄関の鍵を開けたまま姉の帰りを待っとるんよ。
『お姉ちゃんお帰りなさい』と言いたくて」

 

 

8歳で被爆したでしょう。

それから12年たって、 再生不良性貧血と診断された。

そのとき初めて、 私は直面したんよ。

「原子爆弾って何なの?」
「なぜ広島に原爆が落とされたの?」

それまでの私は、本当に無知だったのね。

 

被爆後、恵美子さんの体に異変が起こった。
「歯茎から出血して、髪が抜けて。
疲れて度々横になってた。
当時は放射線の被害だと誰も知らんかったんよ」
20歳の時、
初めて診断された再生不良性貧血、
被爆者の多くにその症状が出る。
そしてその健康不安は被爆2世にも及ぶ。

8歳で被爆したでしょう。

それから12年たって、 再生不良性貧血と診断された。

そのとき初めて、 私は直面したんよ。

「原子爆弾って何なの?」
「なぜ広島に原爆が落とされたの?」

それまでの私は、本当に無知だったのね。

被爆後、恵美子さんの体に異変が起こった。
「歯茎から出血して、髪が抜けて。疲れて度々横になってた。当時は放射線の被害だと誰も知らんかったんよ」
20歳の時、
初めて診断された再生不良性貧血、
被爆者の多くにその症状が出る。
そしてその健康不安は被爆2世にも及ぶ。

 

家族写真2

 

恵美子さんは24歳で結婚し、幸い二人の子どもを授かった。
戦後の苦しい時代に、洋裁の技術を活かして働き続けてきた甲斐あって、デパートに出店することもできた。
「子どもの手が離れたらファッションビルを建てたい、と夢見てたんよ」しかしある日、その夢を打ち砕くかのような出来事が起こる。中学1年生になった長男が交通事故で亡くなったのだ。「仏壇の前に座って、浴びるほどお酒を飲んだよ。仕事で人に会うのも嫌になってね」ファッションの世界から身を引いた恵美子さんに転機が訪れるのは、それからしばらくたってからだった。

子どもたちの七五三の記念に。息子、娘と恵美子さん

平和活動への目覚め

写真右から二人目がワールド・フレンド シップ・センター創始者のバーバラ・レイノルズ氏。
中央が恵美子さん

平和活動への目覚め

息子を亡くし、その失意からファッション業界と距離を置いていた恵美子さんは、ある日、新聞を読んでいて気になる記事を目にする。「あなたは世界平和のために何ができますか?」 ワールド・フレンドシップ・センター が、アメリカで平和活動をする人を募集していたのだ。「それまでの私は、生きていくために必死。世界平和なんて考えたこともなかった」履歴書に書いた特技「日本舞踊、お茶、お花」が担当者の目にとまり、日本文化を紹介してほしい、と採用された。1987年、岡田恵美子、50歳での渡米。それが平和活動の出発点になった。
アメリカで被爆体験を話したとき、必ず返ってきた言葉が「パールハーバーが先だ」。そこから岡田さんは、原爆や他国での戦争について学び始める。

 

私は広島の被爆者です。

だけど、自分の被爆体験や
ヒロシマの悲惨な体験だけを話して
終わる気はないんよ。

今や、世界中の誰もが被害者になり得るから。

 

 

私は広島の被爆者です。

だけど、自分の被爆体験や
ヒロシマの悲惨な体験だけを話して
終わる気はないんよ。

今や、世界中の誰もが被害者になり得るから。

 

ウクライナ・キーウで
被爆証言を

資料を手に被爆証言をする本人

2000年、恵美子さんは、 ジュノーの会 の甲斐等氏と共にウクライナの首都・キーウを訪れた。チョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故の被害者の方々を前に、広島の被爆者を代表して話をする機会を与えられたのだ。集会所のような場には、原発事故で亡くなった子どもたちの写真が多数飾られていたという。キーウは原発事故が起こった場所から10キロ近く離れているが、近くの小学校では当時の在校生の多くが甲状腺がんにかかっていた。「何の罪もない子どもたちが犠牲になる…絶対にあってはならないことよ」姉と息子を失った岡田さんの辛い過去は、世界中の子どもたちへの強い愛へと昇華されている。
放射能による被害という共通点で結ばれた広島とウクライナ。被爆者である恵美子さんが、原爆の惨禍の中を生き延びてキーウを訪れたこと、そのこと自体が、街の人たちにきっと希望を与えたに違いない。

初孫と一緒に国連へ

 

2009年には、ニューヨークの国連での会議に初孫と共に出席。各国の市長の前で二人それぞれにスピーチをした。
「各国の市長さんが孫に話しかけてくださってね。平和ってこれなんだ、と」
自然に沸き起こる拍手。膝を交えて対話をする中で、平和は生まれる。そのことを体感した。
こうした経験から、恵美子さんは、被爆証言の場に立つときも、自らの被爆体験を一方的に話すのではなく、世界で見てきたこと、核をめぐる世界の状況なども盛り込み、グローバルな視野を持って話す姿勢を貫いてきた。

 

 

オバマさんがヒロシマに来た時、記者の人に聞かれたの。
「謝罪してほしいと思うか」って。

私は答えた。
「オバマさんが謝罪して、 姉が帰ってくるなら、してほしい」と。

姉は帰ってこないじゃない。

過去はもう戻ってこない。

でも未来は、これからいくらでも変えられるでしょう。

そうじゃない?

 

 

2016年5月27日、第44代アメリカ合衆国大統領、
バラク・オバマ氏が広島を訪問した。
原爆投下を行ったアメリカの現職大統領が
被爆地を訪れたのは、歴史上初めてで、
世界中の注目を集めた。

編集・制作 NPO法人ANT-Hiroshima

写真 石河 真理

文 後藤 三歌