森下弘

 

森下 弘

 

 

結婚し、初めて子どもを授かったとき、
私は圧倒されました。


目も開かないような、生まれたばかりの娘が
必死に乳房にくらいついている
その生命力に。

そして娘の寝顔を眺めていると、
焼け跡で見た、黒焦げの子どもが
オーバーラップして見えたのです。

そのとき、私の中に強い思いが
湧き起こりました。

もう二度と、子どもたちに
あんな体験をさせてはならない。
私は語らねばならない、と。

結婚し、初めて子どもを授かったとき、
私は圧倒されました。


目も開かないような、生まれたばかりの娘が
必死に乳房にくらいついている
その生命力に。

そして娘の寝顔を眺めていると、
焼け跡で見た、黒焦げの子どもが
オーバーラップして見えたのです。

そのとき、私の中に強い思いが
湧き起こりました。

もう二度と、子どもたちに
あんな体験をさせてはならない。
私は語らねばならない、と。

 

  • Profile
    Hiromu Morishita

森下 弘 (もりした・ひろむ)

1930年(昭和5年)10月26日、豊田郡中野村(現在の大崎上島町)生まれ。両親、祖父母、2歳、7歳年下の妹2人、7人家族。4歳の時、小学校の教員だった父が広島市大芝尋常小学校に転勤となり、同市西白島町に家族で引っ越した。日本は、昭和の大恐慌を経て、日中戦争(1937年)が勃発、太平洋戦争(1941年)へと突入。戦時色に染まる世の中で育つ。白島国民学校を卒業し、1943年、旧制広島一中(現広島国泰寺高)に入学。農村への勤労奉仕や広島航空、東洋工業への動員など、勉強の代わりにひたすら働く。

一中3年生だった1945年8月6日、爆心地から1.5キロで建物疎開作業中に突然、閃光が走り、被爆。顔や手に大やけどを負った。母は西白島町の自宅で建物の下敷きになり、焼死した。父は三菱工場(出張先、草津の寺)、上の妹は靴工場(三篠)で被爆したが無事、下の妹は飯室に疎開して難を逃れた。
その日のうちに、川内村(現安佐南区)の知人宅にたどり着き、約2カ月間はやけどの治療。10月から祖母の疎開先の壬生町(現山県郡北広島町)の叔父宅で療養後、翌1946年1月、父の勤務先があった祇園の寄宿舎へ移り、その夏、顔や首のケロイドを逓信病院で2回手術する。

思春期に母を失った喪失感から、優しさやロマンなど内面的なものを追求するようになる。1948年、広島高等師範学校に進学、翌年、学制改革があり、新制広島大学文学部国文科へ入学。結核を患い、療養、休学が続いた在学中、詩作や小説の執筆など創作活動にのめり込み、病気に苦しむ日々を紛らわせた。
1955年の春、大下学園祇園高等学校教師として教壇に立ち、国語と書道を教える。ずっと被爆でケロイドを負った自分を受け入れられず、県立高校の書道教師となってからも、被爆体験を語ることはなかった。しかし、1961年の結婚から2年後に誕生した長女が授乳される姿を目の当たりにして、生命の力強さを感じ、「二度と子どもたちを犠牲にしてはいけない」と被爆体験を語り出す。

1964年、バーバラ・レイノルズ氏(後に平和団体「ワールド・フレンドシップ・センター」を設立、1990年没)が企画した第2回目の世界平和巡礼に初めて参加し、欧米やソ連(当時)などを巡り、核廃絶を訴えた。米国では、原爆投下を決断したトルーマン元大統領とも面会した。帰国後も、高校生らを対象に原爆意識調査の実施や、被爆教師の会の設立にも尽力、WFC理事長は2012年まで長年務めた。
書家として、1981年に来広したローマ教皇の平和アピールの碑文を揮毫した。「戦争は人間のしわざです」で始まる碑文を刻んだ石碑は今も、広島平和記念資料館で、ロシアによるウクライナ侵攻で揺れる世界へ向けて、強いメッセージを放つ。1983年に詩集『ヒロシマの顔』を出版。1990年に30年間勤務した県立廿日市高校を退職後、島根大、広島文教女子大(現在の広島文教大)で教授として書を教える。90歳を過ぎた今も、平和活動の歩みを止めることはない。

 

 

人生のすべてが狂ってしまった、あの日から

▲昭和11年(1936年)11月3日、白島に
住んでいた頃の家族写真。
森下さん6歳の頃(写真中央)

1945年8月6日。旧制中学3年生、14歳だった森下さんは、その日体調が優れず、医者から休むように言われていた。しかし、一旦出席して翌日から休むことを伝えるように父から言われ、渋々出かけた。爆心地から約1.5キロの鶴見橋のたもとで建物疎開の作業中、突然、閃光が走り、「あまりにも熱くて巨大な溶鉱炉に投げ込まれたようだった」
顔や首に大やけどを負い、周りの友人たちも顔の皮がむけていた。逃げる途中、手を幽霊のように突き出した兵隊の隊列や黒焦げの幼児の死体を目にした。自宅がある西白島町は、陸軍の施設が集まる基町近く。爆心地から、あまりにも近すぎた。その朝、玄関先から見送ってくれた母は帰らぬ人となった。

<父が拾ってきたぼろぼろの母の骨を前に 父と祖母が抱き合って号泣する 傷の痛み疲れ果てた私は 涙さえ出ない>(詩集『ヒロシマの顔』より)

▲「昭和6年(1931年)5月3日」と記された写真。
生後6カ月の頃

「昭和18年(1943年)2月」と記されている。
13歳、旧制広島一中、1年生▼

<父が拾ってきたぼろぼろの母の骨を前に 父と祖母が抱き合って号泣する 傷の痛み疲れ果てた私は 涙さえ出ない>(詩集『ヒロシマの顔』より)

 

母を亡くし、
ケロイドが残った
―心と体に残る傷跡

 

母を亡くした喪失感と悲しみは、思春期になるにつれ、増していった。玄関先で優しく見送ってくれた母が、数日後には白い骨だけに変わり果てる。14歳の少年には、残酷で、受け入れ難い事実だった。「ふとお母さんが現れそうな気がしてね。自分を見守ってくれる存在、優しさを求める気持ちが強くなっていきました」
原爆で、広島の街は崩壊した。「形あるものは崩れ、壊れてしまうものなのか」という虚無感を消し去るように、森下さんは「永遠のもの」「滅びないもの」、ロマンを追い求めていく。
一方で、顔や首に残るケロイドは、「目にみえるトラウマ」となって、森下さんをずっと苦しめ続けた。周りの視線から逃れられない辛さ。鏡を見ることが嫌だった。どうしても自分を受け入れられなかった。
<ドーム それは私のケロイド 逃れられない桎梏しっこく 壊したいけど 壊されない世界が崩れるから>。原爆ドームを自身のケロイドに重ねて、苦悩を吐露した詩が、詩集『ヒロシマの顔』にはある。

▲被爆後の森下さん

▲1946年広島陸軍病院江波分院跡にて。原爆投下後、初めて学友たちと顔を合わせた。「亡くなった友達もいる、私と同じように家族を亡くした者、やけどを負った者もいる。軍国教育の価値観も崩壊し、すべてを失った。再会を素直に喜べる状態ではなく、わあーっ!と叫び出したいような気持ちでした」

森下さんが描いた被爆体験の絵。
自分の見た惨状、体験に加え、友人たちから聞いた体験も織り混ぜて描いた。「閃光、熱線。瞬間、私たち70名の生徒は巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げ込まれた。そして熱風が…(鶴見橋西詰、爆心地から1.5km)」と文章が添えられている

広島平和記念資料館 (所蔵・提供)

▲森下さんが描いた被爆体験の絵。
自分の見た惨状、体験に加え、友人たちから聞いた体験も織り混ぜて描いた。「閃光、熱線。瞬間、私たち70名の生徒は巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げ込まれた。そして熱風が…(鶴見橋西詰、爆心地から1.5km)」と文章が添えられている

広島平和記念資料館 (所蔵・提供)

母を亡くし、ケロイドが残った―心と体に残る傷跡

 

 

 

よく父が、「禿げそのままの悟り」という言葉を
話してくれました。

若い頃から禿げていた、あるお坊さんがいた。
その容姿を恥じるのではなく、
心の清い人になればいいんだよ。

そう言って、ケロイドに悩む私を
慰めてくれたんです。

心の清い人になればいい…。
そして私は、文学や詩、短歌と
内面的なものを追求するようになっていきました。

 

 

よく父が、「禿げそのままの悟り」という言葉を
話してくれました。

若い頃から禿げていた、あるお坊さんがいた。
その容姿を恥じるのではなく、
心の清い人になればいいんだよ。

そう言って、ケロイドに悩む私を
慰めてくれたんです。

心の清い人になればいい…。
そして私は、文学や詩、短歌と
内面的なものを追求するようになっていきました。

 

 

文学に救いを求めて
―日常を深く洞察し、感性を磨く

▲広島高等師範学校(現在の広島大学
教育学部)在学中の森下さん

▲旧広島陸軍被服支厰は、1946年から数年に渡り、広島高等師範学校の校舎として使用されていた。当時の旧被服支厰での貴重な写真

ケロイドに悩む息子の苦悩を知っていた父は、変えることのできない容姿を気に病むのではなく、心を磨けばいい、と励まし続けてくれた。そのことが、その後の人生で「内面的な探求を深めるきっかけになった」と、森下さんは今でも感謝する。広島大学文学部に在学中、詩や小説を書くことに没頭したが、結核にかかって療養が続き、卒業までには6年かかった。「病床で退屈だろうから短歌を作ったらどうか」と友人に勧められ、結社に入って短歌の創作に励んだ。その結社は、人生に「美」を見いだす耽美たんび派。体温計で体温を測る。水銀の目盛りが上がれば、熱がある=「悪」であるはずだが、その動き自体を「美しい」と捉える。日常を見つめることで感性が磨かれていった。雑誌に投稿したり、批評会に参加したりと、病床の暇つぶしだった短歌作りは、いつしか森下さんの生きがいになり、その後の詩作や書道といった創作活動の力となった。

教職に就こうとしていた頃、広島の被爆者の歴史を語る上で欠かせない人たち、河本一郎氏(写真奥中央)、吉川生美氏(写真前列中央)らと出会い、影響を受ける。写真右が森下さん

▲教職に就こうとしていた頃、広島の被爆者の歴史を語る上で欠かせない人たち、河本一郎氏(写真奥中央)、吉川生美氏(写真前列中央)らと出会い、影響を受ける。写真右が森下さん

 

教師となり教壇に立つ
―被爆した事実を明かせぬまま

 

▲当時の大下学園祇園高校で教員として国語と書を教え始めた頃。結核治療を続けていたため、教壇に立つのは週に数日だった

◀当時の大下学園祇園高校で教員として国語と書を教え始めた頃。結核治療を続けていたため、教壇に立つのは週に数日だった

戦後10年が過ぎた1956年、広島平和記念資料館で開かれた原子力平和利用博覧会。森下さんは女学校の引率教員として足を運んだ。「病気を追跡する(ラジオアイソトープ)、飛行機や船の大きなエネルギーになる。原子力は素晴らしいという空気に満ちていた」
だが一方で、資料館には被爆の記憶が残っている。ケロイドの標本や熱線で溶けた遺物などの展示物を見て、「怖い、怖い」「今晩、眠れないかもしれない」と女子生徒たちがささやいていた。教員になり、楽しい日々を過ごしていたが、ふと我に返った。「みんな教壇に立つ私をどう思っているんだろうか。私のケロイドも。醜いものは醜いのでは…」
被爆の話を避けるようになり、教壇から去りたいとまで思った。

教員になった頃の森下さん。広島大学在学中に結核を患い、気胸の治療をするなど、長期療養を余儀なくされた経験から、病床を脱して働けることが本当にうれしかったという

▲教員になった頃の森下さん。広島大学在学中に結核を患い、気胸の治療をするなど、長期療養を余儀なくされた経験から、病床を脱して働けることが本当にうれしかったという

教師となり教壇に立つ―被爆した事実を明かせぬまま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

疲れ切った夜の果てに
川は汚れ 街はおびえ
ドームの上に
人間が人間に命じて
いけにえの火柱が立ち



木端同様に
はりつけられた生命


だから
地図もないままに
旅立った魂は
やさしく装った
広島に再会しても
はじらいとまどってしまう





森下弘作・詩集『ヒロシマの顔』より
「緑のドーム」一部抜粋

疲れ切った夜の果てに
川は汚れ 街はおびえ
ドームの上に
人間が人間に命じて
いけにえの火柱が立ち


木端同様に
はりつけられた生命

だから
地図もないままに
旅立った魂は
やさしく装った
広島に再会しても
はじらいとまどってしまう


森下弘作・詩集『ヒロシマの顔』より
「緑のドーム」一部抜粋

 

 

娘の誕生
―すべての子どもたちの
ために語らねば

▲広島県立廿日市高等学校での書道教諭時代。
被爆教師として平和教育も開始、心血を注いだ

▲「夏になると 子供達は裸が好き だけど
着物を脱がせてはいけない 真っ黒焦げの
幼児が甦ってくる」
森下さんによる書

もう二度とないと信じたはずの戦争は、朝鮮戦争(1950年)で裏切られた。また、自分を苦しめた原爆が使われることになるのか―。ケロイドを持つ者こそ先頭に立って反対運動をすべきではないのか、と反戦運動家から求められたが、ケロイドを「売り物」にはできない、という考え方を乗り越えられなかった。
県立高校で書道教諭となってからも、日々を懸命に生きることで精いっぱいで、あえて過去を振り返ることはしなかったが、30歳を過ぎ、結婚して子どもができたことが転機となった。必死に妻の乳房に食らいつく娘の姿に、力強い生命力と幸せを感じると同時に、被爆後の焼け跡で見た黒焦げの幼児の顔が重なって見えた。「こんな愛おしい子どもたちを、二度とあんなひどい目に遭わせてはいけない」被爆体験を語ることから逃げていた自分の背中を、目も開いていない長女に押された気がした。それが証言活動を始める大きなきっかけとなった。

▲妻・常子(ひさこ)さんと3人の子どもたち。
家族は常に、森下さんの心の支えであった

▲次女、長男とともに

◀〈写真左〉
妻・常子(ひさこ)さんと3人の子どもたち。家族は常に、森下さんの心の支えであった

〈写真右〉
次女、長男とともに

 

平和活動の幕開け
―バーバラ・レイノルズ氏
との出会い

 

▲バーバラさん(写真中央)、小倉馨さん(広島平和文化センター事務局長、広島平和記念資料館館長などを歴任した広島市職員。1979年没)とともに写る森下さん(写真右)

▲アメリカ・イリノイ州にてホストファミリーと

▲平和巡礼出発前の一コマ
写真右が妻・常子さん
写真中央は父と長女
左は常子さんの母

バーバラ・レイノルズ氏(1915-1990)は、ABCC(原爆傷害調査委員会)で働く夫の仕事で1951年に来日した主婦だったが、広島で被爆者と出会ったのをきっかけに平和活動に奔走し、1965年、平和団体「ワールド・フレンドシップ・センター」(WFC)を広島市内に設立。1969年に帰国後も米国で反戦、反核のために走り回った。「実際に会うと優しいおばちゃん。でも、私財を投げ打った活動の裏の質素な生活を見ると、本当に感銘を受けた」と森下さん。WFCの理事長を2012年まで長年務めたのも、バーバラ氏への敬愛の念と、初代理事長で被爆者治療に尽力した外科医・原田東岷とうみん氏(1912-1999)の遺志があったからだ。

森下さんが被爆体験を語る決意をした1960年代は、キューバ危機(1962年)や中国の核実験(1964年)など核兵器を巡る動きは緊迫していた。そんな中、バーバラ・レイノルズ氏が企画した世界平和巡礼を知り、初めて参加。75日間、被爆者ら十数名と通訳で、米国、フランス、ソ連(当時)など8か国を巡り、核廃絶を訴える旅だった。
母を奪い、被爆者として森下さんを苦しめた米国だったが、不思議と渡米への抵抗はなかった。また、米国のNGO関係者ら善意の人々が巡礼を支えてくれていることも知り、憎しみは感じなかった。好奇心も後押しした。

平和活動の幕開け―バーバラ・レイノルズ氏との出会い

 

 

 

 

「Forgive me, Forgive me !」
( 許しておくれ、許しておくれ )

平和巡礼で訪れた米国で、
平和会議が終わり、教会でお祈りしたときでした。

年配の米国人男性が近寄ってきて、
大きな体を揺らせて、おいおい泣くんです。

被爆証言を聞いて、
耐えがたい気持ちだったんでしょうね。

米国にもいるんです。
原爆のむごさに涙し、反戦を願う人々は。

 

 

「Forgive me, Forgive me !」
( 許しておくれ、許しておくれ )

平和巡礼で訪れた米国で、
平和会議が終わり、教会でお祈りしたときでした。

年配の米国人男性が近寄ってきて、
大きな体を揺らせて、おいおい泣くんです。

被爆証言を聞いて、
耐えがたい気持ちだったんでしょうね。

米国にもいるんです。
原爆のむごさに涙し、反戦を願う人々は。

 

 

被爆者として
トルーマン元米大統領
と面会

▲トルーマン元米大統領は壇上でインタビューを受ける形をとった。森下さんら被爆者を含む日本からの一行は、その下で、固唾を飲んでその一部始終を見守っていた
(トルーマン図書館にて)

トルーマン元米大統領と面会後、興奮冷めやらぬ中、筆をとり、感想を綴った貴重なメモ。今も大切に保管している

▲面会を果たした後の森下さん

▲トルーマン元米大統領と面会後、興奮冷めやらぬ中、筆をとり、感想を綴った貴重なメモ。今も大切に保管している

1964年の米国滞在中、バーバラ氏らの計らいで、戦中は「鬼畜米英」の象徴だった トルーマン元米大統領との面会が実現した。トルーマン氏と訪問団長、通訳の3人がステージで対面し、森下さんらは客席で見守った。「ああいうことは二度とあってほしくない」戦争とも、原爆投下とも取れるあいまいな発言だった。多くの米兵の命を救い、戦争を終わらせるために必要だった、と暗に言いたかったのか、と後で感じた。最後に「自分が作った国際連合を通じて国際的な紛争を解決すべきだ」と述べ、わずか3分間の面会は終わった。
トルーマン本人が被爆者の前に出てきただけも評価すべき、という声もあったが、被爆者側からすれば、肩すかしだった。森下さんもがっかりした思いを、当時のメモに綴っている。「あんなむごいことをやって、すまなかったという一言がほしかった。原爆投下決定時に、幼い子どもたちのことは頭をかすめなかったのか」

 

90歳を越えて
―命ある限り語り続ける

 

米国の退役在郷軍人会の席で「我々の主張が正しい」と、トルーマン同様の対応をされることもあった。一方、他の地域では、原爆投下が戦争終結を早めたわけではない、と理解している人々もいた。被爆者の声が被爆地だけでなく、世界に届き、共感してくれる外国人がいることに、大きな意義を感じた。
長年の被爆証言活動にコロナ禍は水を差す形となったが、森下さんはオンラインでの証言も続けている。90歳を超え、耳が聞こえづらかったり、歩くのもつらくなったり、体力の衰えは隠せない。それでも、語ろうとする意思は衰えを見せない。あの夏、残酷な光と熱によって絶命した子どもたち、平和活動に半生を捧げたバーバラ氏、原爆を知らない今の子どもたち…。自宅に保管されたメモや記録、切り抜きなど数万点の資料は、あの日から平和を願い続けてきたヒバクシャ・森下弘の結晶だ。

▲森下さんの書家としての代表作の一つ、それが広島平和記念資料館に展示されている石碑の碑文だ。1981年に来広したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の平和アピール。「被爆者として反核、反戦活動の後ろ盾を得た思いがした」という。碑文の揮毫(きごう)を頼まれ、何度も書き直し、丁寧に仕上げた

▲自宅にはヒロシマ、平和、原爆、書や詩、文学に関する貴重な資料が、圧倒的な量で保管されている

▼自宅2階の書斎にて。ここからオンラインでの証言活動も行っている

 90歳を越えて―命ある限り語り続ける

 

 

 

 

 

「私もまた、被爆者です」

広島平和記念公園(広島市中区)そばにひっそりと立つバーバラ氏の記念碑に、生前の言葉を揮毫したのも森下さんだ。書家としての雅号は、森下清鶴。
今も折にふれ、筆を握っている。

 

 

「私もまた、被爆者です」

広島平和記念公園(広島市中区)そばにひっそりと立つバーバラ氏の記念碑に、生前の言葉を揮毫したのも森下さんだ。書家としての雅号は、森下清鶴。
今も折にふれ、筆を握っている。

 

写真 石河 真理

文 山本 慶史・後藤 三歌