鎌田七男

 

鎌田 七男

 

 

診察室で、施設で、
これまで多くの被爆者の方々に接してきました。

みなさんは私を「先生」と呼んでくれますが、
みなさんこそ、私の「先生」なのです。

 

 

診察室で、施設で、
これまで多くの被爆者の方々に接してきました。

みなさんは私を「先生」と呼んでくれますが、
みなさんこそ、私の「先生」なのです。

 

  • Story.1
    Nanao Kamada

鎌田七男

1937年3月20日、満州奉天(今の中国・瀋陽)に、鎌田家の七男として生まれる。父は電気工事の会社を営み、一家は日本人村にて安泰な生活を送っていた。赤ん坊の七男さんを抱いてあやしてくれていたという鎌田家の長男・正巳さんは、満州医科大学(現在の中国医科大学)に進学したが、卒業前に病死。長男を失った両親の悲しみは深く、七男さんは幼少の頃から「医師になることを期待されていた」と感じていたという。

その後、小学校に入学、1945年当時は8歳。8月15日に終戦を迎え、日本は敗戦。それから生活が一変する。日本人村を守るため、父と三男・三郎さんが電気柵を外周2kmにはりめぐらせるなど、生活環境は厳戒態勢へ。そんな中、持病の結核が再発した父は、1946年5月6日に死去。鎌田家は日本に引き揚げることになる。

長い船旅を経て仙崎(現在の山口県長門市)に到着、1946年7月17日、鎌田家のルーツである鹿児島にたどり着く。七男さんは慣れない鹿児島弁に戸惑いながらも徐々に順応し、持ち前の活発な性格で、小学校、中学校とスポーツや勉学に励む。中学3年の夏、出稼ぎに出ていた三男・三郎さんを頼って、母と共に福岡県田川市へ転居、県立田川東高校(現在の福岡県立東鷹とうよう高等学校)へ進学。医学の道を志し、受験雑誌「蛍雪時代」を頼りに、広島大学に照準を定めるが、受験倍率は7.2倍。父を亡くし、兄の世話になっていた家計では「浪人をするという選択肢はない」。高すぎる倍率に不安がよぎり、父親代わりだった兄につぶやくと、返事は「やってみんと分からん」。この兄の言葉に発奮し、再び前を向き直して猛勉強。結果は見事合格。ここから七男さんの新しい人生が始まる。

 

 

満州から九州へ、
時代の波を乗り越えて

 

父・政吉さんは1890(明治23)年、薩摩半島伊作村(現在の鹿児島県日置市)で生まれた。次男で農地を継ぐことができなかったため、当時の流れで満州へ渡った

 

 

父の期待に応えて医学の道を志し、大学に進学するも、1939(昭和14)年病死した長男・正巳さん。その志を七男さんが引き継いだ

 

父亡き後、親代わりとして物心両面で支えてくれた3番目の兄・三郎さんと、父親不在でも引け目を感じることのないように育ててくれた母・そめさん。
写真は1952(昭和27)年、2回目の脳卒中後(母)

父亡き後、親代わりとして物心両面で支えてくれた3番目の兄・三郎さんと、父親不在でも引け目を感じることのないように育ててくれた母・そめさん。写真は1952(昭和27)年、2回目の脳卒中後(母)

安泰だった満州での暮らしは、日本の敗戦後に一変した。信頼していた知人の裏切り、日本人街をうろつくロシア兵や八路軍兵、父親の死去、遺骨と残された家族の身一つの引き揚げ…そこには惨めさ、悔しさ、悲しみ、不安、いろんな気持ちが交錯していた。のちに医師として多くの被爆者と出会い、時に看取ることになった七男さん。「人のつらさに寄り添う、という人間としての下地は、この幼年期の経験から培われているのかもしれません」。

支えられ、
期待を背負って、
医学の道へ

医師となった七男さんは、1998年、奇しくも鎌田家の長男・正巳さんの母校で講演を行うことになった。その機会に兄弟も渡航、懐かしの地をみなで訪ねた(左から六男、七男、三郎、五男)

 

兄弟間で近況を報告し合った
鎌田家新聞「つどい」

幼い頃、苦労を共にし、またいつも末っ子の七男さんを助けてくれた兄たち。成人してからはそれぞれ他県に暮らす。離れていてもお互いの近況を知らせ合おうと、筆まめな兄たちが兄弟新聞を企画。1961年から2005年の44年間にわたって文面での交流を続けた。「僕は研究などで忙しく、なかなか近況も伝えられなかったから、兄たちによくせっつかれましたね(笑)。地道に続けて送ってくれて、今では当時を思い出すいい記録になり、財産です」。文章や資料をまとめ、記録に残すことを大切にする七男医師の几帳面さは、兄弟ゆずりなのかもしれない。

支えられ、期待を背負って、医学の道へ

 

 

 

  • Story.2
    Nanao Kamada

高倍率を突破して、1955年、広島大学医学部進学課程に見事合格。「亡き父の願い、母や兄たちの期待に応えられたと思うと、涙が出ました」。被爆から10年を経た広島での暮らしが始まった。当時の広島市内は、ガランとした広い大通り(現在の平和大通り)が東西を貫き、川沿いにはバラックがぎっしりと立ち並んでいた。「電車に乗ると、真夏なのに長袖を着た人、帽子を目深に被っている人を見かけました。ああ、被爆者なんだな、と」。そこには被爆の面影がまだ色濃く残っていた。

兄3人の仕送りや家庭教師のアルバイト、奨学金でまかなう生活は楽ではなかったが、専門書の購入などへの出費は惜しまなかった。勉強に励むと同時に、入部したヨット部での練習にも打ち込んだ。1960年、23歳の時、第1回宮島一周ヨットレースの二人乗りのスナイプ級で、なんと優勝。このヨット部でのつながりが、その後、七男さんの将来を大きく変えることになる。

大学卒業後の1961年、福岡の九州厚生年金病院(現在のJCHO九州病院)で1年間インターンを経験。当初は外科志望だった。「僕の性格には外科が向いていると思っていた。ところが当時、まだ医療用の手袋がなかったので、手術に携わるたびに、手をたわしでこすって洗う。すると手がかぶれてしまって…皮膚炎ですよ」。これでは外科でやっていけない。どうすればいいのか、と悩んでいたところにヨット部時代の先輩から声がかかった。「うちに来いよ」。先輩が所属していたのは同年、広島大学に設置されたばかりの原爆放射能医学研究所(原医研)。翌1962年4月1日には大学病院に被爆内科が新設されるという。全国的にも世界的にもまだめずらしい部門。未知の分野での仕事に七男さんの心が動いた。

1962年、25歳の時、広大原医研・臨床第一研究部門被爆内科に入局。そこで部門の初代教授、朝長正允氏に出会う。朝長教授は長崎医科大学出身、血液内科学の専門家で、かの永井隆博士の後輩かつ主治医でもあったドクターだ。原爆被爆者の白血病と一般の白血病とは違うのか?原爆被爆者の白血病発症のメカニズムは?…そのことを突き止めるために、朝長教授は七男さんに染色体研究を命じた。
午前中は広島大学医学部附属病院被爆内科で外来を担当、夕方までは入院病棟の患者の対応。染色体の研究は深夜に及んだ。研究仲間との努力が実を結び、原爆被爆者の血液の中に、慢性骨髄性白血病に見られるフィラデルフィア染色体を発見。1962年11月「慢性骨髄性白血病の早期発症例」を発表した。原爆投下から17年。七男さんの「被爆者と共に歩む人生」の幕開けである。

 

 

 

 

1945年8月6日 8時15分

爆心地から500m以内の、ある小学校で
偶然、地下室にいたため
一命を取り留めた8歳の少年

原爆で親兄弟を亡くし、
親戚をたらい回しにされたのち孤児収容所へ

社会に出て結婚し、やっと幸せを掴んだが
胃がんを患い、2度の手術を経験
初孫を白血病で亡くす
息子は父を気遣い、
長く我が子の病名を明かさなかった

 

 

そののち原爆放射線に関連する間質性肺炎を患い、
呼吸をするたびに苦しんだ

彼の染色体異常率は21%

被爆から60年余りの、ある年の瀬、
彼は自ら命を断った

 

 

核兵器は、
それによって被爆した人間を
肉体的、社会的、精神的、すべての面で
生涯虐待し続けるのです。

 

 

 

左記は、七男医師が長年交流を続けた近距離被爆者の中の、あるお一人の人生だ。
即死もまぬがれないほどの近距離で、奇跡的に一命を取り留めた人々。しかしその体や心、生活実態は、大きく蝕まれていた。被爆後70年までの追跡調査の中で66人が亡くなった。「亡くなった方の約半数ががんに侵されていました。原爆投下時に浴びた放射線によって、一瞬にして各臓器の幹細胞のDNAが傷つけられ、そこから長年かかって、がん細胞が発生したと考えられます。臓器ごとに放射線に対する感受性が異なるので、時期を違えてがんを発症する。転移ではなく二つ目や三つ目のがんが多いのはそのためです」。核兵器は、人間を遺伝子レベルで傷つけ、その人生を生涯にわたって傷めつける。世界中でどれだけの人が、その事実を知っているだろう?

 

1945年8月6日 8時15分

爆心地から500m以内の、ある小学校で
偶然、地下室にいたため
一命を取り留めた8歳の少年

原爆で親兄弟を亡くし、
親戚をたらい回しにされたのち孤児収容所へ

社会に出て結婚し、
やっと幸せを掴んだが
胃がんを患い、2度の手術を経験
初孫を白血病で亡くす
息子は父を気遣い、
長く我が子の病名を明かさなかった

 

そののち原爆放射線に関連する間質性肺炎を患い、呼吸をするたびに苦しんだ

彼の染色体異常率は21%

被爆から60年余りの、ある年の瀬、
彼は自ら命を断った

 

核兵器は、
それによって被爆した人間を
肉体的、社会的、精神的、すべての面で
生涯虐待し続けるのです。

 

上記は、七男医師が長年交流を続けた近距離被爆者の中の、あるお一人の人生だ。
即死もまぬがれないほどの近距離で、奇跡的に一命を取り留めた人々。しかしその体や心、生活実態は、大きく蝕まれていた。被爆後70年までの追跡調査の中で66人が亡くなった。「亡くなった方の約半数ががんに侵されていました。原爆投下時に浴びた放射線によって、一瞬にして各臓器の幹細胞のDNAが傷つけられ、そこから長年かかって、がん細胞が発生したと考えられます。臓器ごとに放射線に対する感受性が異なるので、時期を違えてがんを発症する。転移ではなく二つ目や三つ目のがんが多いのはそのためです」。核兵器は、人間を遺伝子レベルで傷つけ、その人生を生涯にわたって傷めつける。世界中でどれだけの人が、その事実を知っているだろう?

 

 

被爆者と共に
歩んだ研究者人生

1967年(29歳)アメリカ・カリフォルニア大学へ留学(写真1)
1970年(33歳)英語論文「骨髄性細胞染色体に及ぼす放射線の影響」を長崎大へ提出、博士号を取得
1972年(35歳)爆心地から半径500m以内の被爆生存者についての調査研究「原医研プロジェクト」を担う

(写真1)サンフランシスコ メディカルセンター臨床病理部門にて、研究者としての学びを深めた

1978年(41歳) 英語論文を国際血液学会などで発表、
世界的な教科書「ウイントロープ臨床血液学」に掲載される
1982年(45歳) 「原爆後障害研究会」で重ねた報告が、広島県医師会より
「広島医学賞」を受ける。プロジェクトチーム11人の代表として受賞
1985年(48歳)広大原医研 血液学研究部門 教授に就任(写真2)
1988年(51歳)IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部理事に就任
1991年放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)発足
1997年~99年
(60歳~62歳)
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)会長
2000年(63歳)茨城県東海村へ赴き、臨界被曝事故調査と支援にあたる(写真3)広大原医研を退職
1967年(29歳)アメリカ・カリフォルニア大学へ留学(写真1)
1970年(33歳)英語論文「骨髄性細胞染色体に及ぼす放射線の影響」を長崎大へ提出、博士号を取得
1972年(35歳)爆心地から半径500m以内の被爆生存者についての調査研究「原医研プロジェクト」を担う

 

1978年(41歳) 英語論文を国際血液学会などで発表、
世界的な教科書「ウイントロープ臨床血液学」に掲載される
1982年(45歳) 「原爆後障害研究会」で重ねた報告が、広島県医師会より
「広島医学賞」を受ける。プロジェクトチーム11人の代表として受賞
1985年(48歳)広大原医研 血液学研究部門 教授に就任(写真2)
1988年(51歳)IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部理事に就任
1991年放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)発足
1997年~99年
(60歳~62歳)
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)会長
2000年(63歳)茨城県東海村へ赴き、臨界被曝事故調査と支援にあたる(写真3)広大原医研を退職

(写真1)サンフランシスコ メディカルセンター
臨床病理部門にて、研究者としての学びを深めた

(写真2) 教授就任を祝して。
前列中央が本人

(写真2) 教授就任を祝して。
前列中央が本人

(写真3)原医研医療チームの一員として、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOにおける臨界被曝事故の調査と支援に

生涯のテーマ「爆心地から半径500m
近距離被爆者の医学的研究」

原医研と広島市、NHKの共同研究で発見された、爆心地から半径500m以内の被爆生存者78名。その医学的追跡調査を任された七男医師は、定期的な健康診断、染色体異常率からの被曝線量の推定、血清レベル・細胞レベルでの放射線に起因する異常性、遺伝子異常の検出などを行っていった。被爆者の方々との対話を重視し、何気ない呟きや訴えの中にもヒントを見つけた。「頭痛がある、という方が何人かおられ、気になってCTを撮った結果、髄膜腫を発見しました。これはかなりめずらしい病気です。検査を重ねた結果、爆心地から1km以内の被爆者に髄膜腫が高率で発症していることが判明したのです」。

2017年には講演会も行った

近距離被爆者の追跡調査から得た知見

  • 家族崩壊・家族形成障害
    (未婚、離婚、孤老)(1975)
  • 染色体の異常(悪性化の素地)(1975)
  • 健常被爆者にがん遺伝子変化(1990)
  • 二つ目、三つ目のがん発症(2004)
  • 精神面で、年と共に不安の増強(2006)
  • 原爆は「生涯虐待」の状況を
    作り出す(2018)

※( )内は発表年

 

「研究によって、医学界一般に貢献する新しいエビデンスを多数突きとめた。すべては被爆者が身をもって示し、導いてくれたのです」。骨髄穿刺、皮膚生検、度重なる血液採取…痛い思いをすることになる検査に、長年協力してくださった被爆者の方々への深い感謝と敬意から、七男医師は広島大学を退官してからも、自費や休日を充てて定期的な健康診断と対話を重ね続けた。電話やメールでコミュニケーションをとり、出張先からはお土産を送る。かたときもその存在を忘れたことはない。

◀話しかける時は、相手の目線の高さに合わせ、まず相手の話を聴く。「医師として」の前に、「人として」相手を尊重する姿勢が、七男医師の根本にある

話しかける時は、相手の目線の高さに合わせ、まず相手の話を聴く。「医師として」の前に、「人として」相手を尊重する姿勢が、七男医師の根本にある

 

 

それまでの僕は、
放射線が人体に与える影響を研究するには
近距離で被爆した人、
高線量を浴びた被爆者を診なければ分からない
と信じていた。


原爆養護ホームで出会った
様々な被爆体験を経た、入園者のみなさんが
僕の見ていた世界を
大きく広げてくれました。

 

 

 

 

それまでの僕は、
放射線が人体に与える影響を研究するには
近距離で被爆した人、
高線量を浴びた被爆者を診なければ分からない
と信じていた。

原爆養護ホームで出会った
様々な被爆体験を経た、入園者のみなさんが
僕の見ていた世界を
大きく広げてくれました。

 

 

 

  • Story.3
    Nanao Kamada

2000年、医師・研究者として駆け抜けた広島大学での38年間を終え、一般病院での職を経て、2001年から公益財団法人 広島原爆被爆者援護事業団理事長、および広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長に転身。報酬は大きく減ったが、七男医師に迷いはなかった。「被爆者のために貢献できる仕事。私の中で何の遜色もありませんでした」。
「被爆者の目線、公正の原則、誠実な対応」と自らの行動訓を定め、現場に出ることを望んだ。入園者や職員とのコミュニケーションをとるため、また、園内の小さな変化や問題点への気付きを得るために、たじろぐ職員たちを説き伏せ、理事長室を出て施設内を歩き回った。入園者の楽しみを作るために、1年に25の催しを企画。入園者の高齢化にともない、ベッドで過ごす人も増えたため、ホールでの催しを居室でも同時に見られるようにテレビの配線工事をし、みなが同じ話題でつながれるように工夫した。
そしてすべての職員の顔と名前を覚えた。その数、194名。「被爆者の方々に、安心して心豊かに暮らしていただくためには、そのサポート役である職員を大切にしなければならない。当たり前のことですよ」。職員の能力と意欲の向上のために、労を惜しまなかった。職員研修を行い、放射線が人体に与える影響などについて何度も話した。広島県から胃瘻・喀痰吸引研修の教育施設としての認定を受け、多くの資格取得者を輩出。また早い時期から看取りを取り入れ、高齢化した被爆者に尊厳ある最期を迎えてもらうための介護・看護に、園全体で取り組んだ。忘年会では、各種資格を取得した職員を表彰し、七男医師が自ら作成した記念写真入りのアルバムを贈呈。そして職員と一緒になって歌い、踊るユーモアも忘れなかった。
一方で、社会的活動や学術発表も精力的に行った。入市被爆や内部被曝、被爆2世の研究を深めたのも、様々な形での被爆を経験しているのぞみ園の入園者との出会いが大きく影響した。
園で過ごした16年間、七男医師の毎日は、朝5:30起床、8:30から20:30まで働き、23:30就寝。原爆養護ホームという特別な職場の責任者として、また研究者として、高い理想を掲げ、全力を出し切った。「大学で研究に没頭していた時代に勝るとも劣らない、充実した時間でしたね」。そのエネルギーは、今もとどまることはない。

  • Story.3
    Nanao Kamada

2000年、医師・研究者として駆け抜けた広島大学での38年間を終え、一般病院での職を経て、2001年から公益財団法人 広島原爆被爆者援護事業団理事長、および広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長に転身。報酬は大きく減ったが、七男医師に迷いはなかった。「被爆者のために貢献できる仕事。私の中で何の遜色もありませんでした」。

「被爆者の目線、公正の原則、誠実な対応」と自らの行動訓を定め、現場に出ることを望んだ。入園者や職員とのコミュニケーションをとるため、また、園内の小さな変化や問題点への気付きを得るために、たじろぐ職員たちを説き伏せ、理事長室を出て施設内を歩き回った。入園者の楽しみを作るために、1年に25の催しを企画。入園者の高齢化にともない、ベッドで過ごす人も増えたため、ホールでの催しを居室でも同時に見られるようにテレビの配線工事をし、みなが同じ話題でつながれるように工夫した。

そしてすべての職員の顔と名前を覚えた。その数、194名。「被爆者の方々に、安心して心豊かに暮らしていただくためには、そのサポート役である職員を大切にしなければならない。当たり前のことですよ」。職員の能力と意欲の向上のために、労を惜しまなかった。職員研修を行い、放射線が人体に与える影響などについて何度も話した。広島県から胃瘻・喀痰吸引研修の教育施設としての認定を受け、多くの資格取得者を輩出。また早い時期から看取りを取り入れ、高齢化した被爆者に尊厳ある最期を迎えてもらうための介護・看護に、園全体で取り組んだ。忘年会では、各種資格を取得した職員を表彰し、七男医師が自ら作成した記念写真入りのアルバムを贈呈。そして職員と一緒になって歌い、踊るユーモアも忘れなかった。

一方で、社会的活動や学術発表も精力的に行った。入市被爆や内部被曝、被爆2世の研究を深めたのも、様々な形での被爆を経験しているのぞみ園の入園者との出会いが大きく影響した。

園で過ごした16年間、七男医師の毎日は、朝5:30起床、8:30から20:30まで働き、23:30就寝。原爆養護ホームという特別な職場の責任者として、また研究者として、高い理想を掲げ、全力を出し切った。「大学で研究に没頭していた時代に勝るとも劣らない、充実した時間でしたね」。そのエネルギーは、今もとどまることはない。

 

一人でも多くの人に、
  ヒロシマの真実を伝えるために

一人でも多くの人に、
ヒロシマの真実を
伝えるために

 

2001年(64歳)財団法人広島原爆被爆者援護事業団理事長、
広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長に就任(写真1)
2002年(65歳)永井隆平和記念・長崎賞を受賞(写真2)
2005年(68歳)「広島のおばあちゃん」出版(写真3)
2006年(69歳)原爆後障害研究会で「入市被爆者白血病」について発表
2007年(70歳)PTSDシンポジウム(イタリア)に参加・報告
2008年(71歳)IPPNW(核戦争防止国際医師会議)世界大会(インド)で発表
2011年東日本大震災が発生
福島県へ赴き、被曝調査にあたる(写真4)
2012年(75歳)「福島内部被曝線量」について発表
IPPNW世界大会(日本)に参加・発表
2015年(78歳)世界核被害者フォーラム(広島)を運営、同報告書監修(写真5)
2016年(79歳)「肺がん組織で証明された内部被ばく」について発表
2017年(80歳)財団法人広島原爆被爆者援護事業団
および広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園 退職
広島大学客員教授 就任
医療法人 仁康会 本郷中央病院 健診センター長 就任
2018年(81歳)平成30年7月豪雨の災害を機に、上記病院を退職
広島原爆障害対策協議会(健康管理・増進センター) 非常勤勤務

 

(写真1)

▲(写真1)当時、西日本一の入園定員を持っていた「のぞみ園」は、その特性上、多様な人々が来訪した。平和学習に訪れる小・中学生、研修医や介護実習生、皇族や時の総理など。緊張感が高まる場面も多い職場だが、だからこそ、何よりも入園者の幸せと職員のやりがいを重視する運営に心を砕いた

 

▼(写真2)永井隆博士は恩師・朝長教授が主治医として最期まで寄り添われた患者であった。感慨深い受賞

(写真2)

▶(写真3)のぞみ園での職員研修のために用意したテキストを本として再編集し、平和教育教材として自費出版。その売り上げはすべて事業団に寄付することを公約・実行。その後、英語・フランス語・ドイツ語の翻訳版を作成、IPPNWボストン本部のウェブサイトから全文を閲覧・ダウンロード可能とし、ヒロシマの真実を世界に発信している。

 

▼(写真3)のぞみ園での職員研修のために用意したテキストを本として再編集し、平和教育教材として自費出版。その売り上げはすべて事業団に寄付することを公約・実行。その後、英語・フランス語・ドイツ語の翻訳版を作成、IPPNWボストン本部のウェブサイトから全文を閲覧・ダウンロード可能とし、ヒロシマの真実を世界に発信している。

(写真3)

 

▼(写真4)2011年5月、原医研出身で福島市在住の医師、斎藤紀(おさむ)医師と共に、独自に調査。福島県飯館村や川俣町住民から採尿と共に2か月間の行動を聞き取り、浴びた放射線量を個人ごとに推定し発表(2012年)。

(写真4)
(写真5)

(写真5)世界核被害者フォーラム
(2015年広島)を運営

  学術発表 ※( )内は発表年

直接被爆者
の研究
  • 白血病の素地となる被爆者骨髄細胞に染色体異常が長く持続していること(1969)
  • 染色体異常から被爆した線量を推定できること
  • 健常な高線量被爆者に他人の染色体異常を誘発する因子(血清因子)のあること(1978)
  • 半致死線量(半分のヒトが30日以内に死亡する放射線量)は3.5-4Svであること(1989)
  • 健常な被爆者骨髄細胞DNAにがん遺伝子(RAS)変異のあること(1988)
  • 思春期に被爆した人での乳がん多発(1989)、脳腫瘍の多発(1997)を新事実として報告
並行して血液専門分野では慢性骨髄性白血病進展過程を解明(1978)、8;21転座型白血病の存在を初めて発表(1968,1976)、4つの白血病の転座型遺伝子配列を解明など
入市被爆者
の研究
1970-1990年の間に入市被爆者から発生した白血病患者113人を解析。8月6日と7日に入市した被爆者に白血病発症率が、全国の発症率と比べて3.4倍高いことを発表(2006)
被爆2世
の研究
原医研データベースを用いて被爆2世を解析。119,311人を同定。県内の被爆2世数は13万~13万5千人と推定(2010)さらに、その中から94人の白血病発症者を確認し、親の両方が被爆している場合は、片方のみの場合より発症頻度が高いことを発表(2012)また、親の被爆から約10年以内に生まれた2世に発症リスクが高いことを報告(2014)
内部被曝
の研究
爆心地から離れた場所にいて直接放射線を受けていなくても、「黒い雨」の降った地域にいて汚染雨水や汚染野菜を食べた人で、被爆50年後より肺がん、胃がん、大腸がん、血液病を患った症例を報告(2008)その人の肺がん組織からウランの崩壊とみられる放射線の飛跡を乳剤感光法で証明(2016)

 

 

原子爆弾が落とされた街は、
世界中で二つしかない。

原子爆弾が落とされた国は、
世界中で一つしかない。

核兵器の非人道的な破壊を体験した人たちが
今まさに、
私たちのそばにいるのです。

私たちにできること
私たちにしかできないこと
私たちがしなければいけないこと

一人一人が考え、
行動していかなければなりません。

原子爆弾が落とされた街は、
世界中で二つしかない。

原子爆弾が落とされた国は、
世界中で一つしかない。

核兵器の非人道的な破壊を体験した人たちが
今まさに、
私たちのそばにいるのです。

私たちにできること
私たちにしかできないこと
私たちがしなければいけないこと

一人一人が考え、
行動していかなければなりません。

 

編集・制作 NPO法人ANT-Hiroshima

写真 石河 真理

文 後藤 三歌